源平雑記

 源平合戦や、その背景について語ったページ。解説というより、想像・妄想の比率が高いです(笑)。



 1、「平家物語」とは


 鎌倉時代前期に成立した軍記物語。

 平家一門の繁栄と滅亡、「源平合戦」と呼ばれる内乱を描いた物語。

「読み本系」と「語り本系」の二系統がある。

「読み本系」はいわゆる書物で、「語り本系」は琵琶法師が諸国を歌って歩く際の台本みたいなもの。

 

 冒頭の詩が有名ですね。多分、暗記した人も居るでしょう。

 

『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

 驕れるものは久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

 猛きものもついには滅びぬ。ひとえに、風の前の塵に同じ。』

 

 これを見ると、いかにも栄華に奢った平家が儚く滅び去る、無常観に満ちた話みたいですよね。

 実際、管理人もそんなイメージを持ってました。

 でもあらためて読んでみたら、なんか違う。

「人というのは、かくあるべき」といった、型にはまった価値観がないんです。

 夫に先立たれて出家する妻が出てくる一方で、夫の死に絶望して、自ら命を断つ女性も出てくる。

この物語は、そういった人々の生き様に対して、説教臭い評価をしない。

 壇ノ浦で入水する知盛も、捕らえられて処刑される宗盛も、それぞれに印象的で、魅力的です。

 

 平家の悪行、悪行、と連呼しながら、書き手が平家に対して、それほど悪い感情を持っているようにも思えない。

 むしろ、平家を滅ぼした側=当時の為政者への皮肉のようにも取れる。

 清盛の傍若無人さをアピールしつつ、作者の描く清盛は、人間味があって、実に魅力的なキャラになっています。

 

 中には、「後から入れたんじゃないかな〜」と思えるような話もありますが。

 作者は不明です。成立の古さを考えれば、現代に伝わるまでの間に、複数の人間の手が加わっていると考えた方が自然かもしれません。

 

 成立年は諸説あり、だいたい1219年から1243年くらいの間、と言われています。

 壇ノ浦の合戦が1185年だから、それから30年から60年くらい後、ということですね。

 仮に30年の方だとするなら、まだ関係者は生きていたでしょう。

 平家は壇ノ浦で滅亡したと言われていますが、それはあくまで男性に限った話。

 平家の女性たちは、壇ノ浦後も宮中で活躍したり、貴族の妻として子孫を残しています。

 中でも知盛の妻・治部卿局は、後堀河天皇の乳母として、宮中でバリバリ活躍していますし、清盛の姪・教子は、順徳天皇の外祖母にもなっています。

 平家の娘だからって迫害を受けたりしないのがおもしろいですね。

 こうした平家の血を引く、あるいは平家ゆかりの女性たちが、「平家物語」の成立に何らかの関わりを持っていたのかもしれません。

 当時の朝廷には、若い頃、平家の公達と交友関係を結んだ人たちも居たでしょうし、彼らの協力があったのかも。

 

 合戦の規模や、いわゆる「キャラ付け」などについては、物語的誇張が見られつつも、歴史的資料としての価値も見直されてきています。

 興味のある方は、パラ読みでもしてみてください。

 乙女ゲーム好きの方なら、きっと萌える部分も多いと思いますし、「遙か」のキャラと比べて読んだりするのもおもしろいですよ。



2、清盛落胤説とは



平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれました。

 ですが、実は忠盛の実子ではなく、白河院の落胤なのではないか、という説があります。

 落胤とは、落とし胤のことです。正式に認知されていない子供。

(「遙か3」では、この「清盛落胤説」を採用しているようです。

詳しい話は出てきませんが、清盛が自分のことを「平家一門の血を引いていない」と発言するシーンがあります)

 

 白河院は、後白河院のひいおじいさん。忠盛やその父・正盛が仕えた人です。

 絶対的な権力者であると同時に、女性関係が有名な人でもありました。 

中宮・賢子との仲は非常に良好で、彼女に先立たれた時、その亡骸を抱いて放さなかったという逸話が残っているほどです。

少し話は逸れますが、2012年に放映された大河ドラマ「平清盛」でも、亡き妻の体にすがろうとする鳥羽院(後白河院の父)を、臣下が無情にも引き離すというシーンがありました。

 死者には穢れがあるという考え方から、天皇が遺体に触れるというのはタブーだったんですね。

 しかし白河院は「前例がない」と諌める家臣たちに、「前例など自分がなる!」と言い放ったそうです。

 当時の人の目には、ルールを省みない権力者の傲慢とうつったかもしれませんが、現代人の目には、人間らしくて好ましいエピソードですよね。

 ですが最愛の中宮の死後、白河院はこれでもかというほど多くの女性と関係を持ちます。(加えて男色も)

 しかも、自分が手を出した女性を臣下に与える、という迷惑なことをしていたらしく(見方を変えれば、彼女たちが生活に困らないよう、良い嫁ぎ先を世話したとも言えますが)、結果的に、落胤が全部で何人居るのか、「確かに数えず」ということになってしまいました。自分でも把握してないってことですね。

 

 清盛の母親については謎です。

白河院に仕えた女房、もしくは白拍子で、白河院の寵愛を受けた「祇園女御」という女性の関係者だった、と言われています。

例えば、「祇園女御」の妹とか、妹のように可愛がっていた同僚とか。

 彼女が白河院と関係を持ち、その後、忠盛と結婚した時には既に白河院の子を身篭っていた……というのも、確かにありそうな話。

ただ、個人的に言わせてもらうなら、話としてはあまりおもしろくない(笑)。

 

 当時の朝廷って、すごく限られたエリートが動かしてる、って印象なんですよ。

 特に「藤原北家」という家がすごくて、どこもかしこも藤原さん状態。

その朝廷で、清盛はじめ平家一門があの手この手でのし上がっていく、そういう話の方が楽しいです。

 清盛が院の血縁だったから出世した、みたいなのはちょっと……。

 

 ただ、清盛は12歳で元服した際、「従五位下、左兵衛佐」という地位を与えられています。

まだ武士の地位が低かった時代に、破格と言ってもいい待遇です。

このことを不自然だとして、「白河院の落胤」でなければ説明がつかないだろう、とする説もあります。

 

 ……管理人的には、別にそれ以外にも、説明の仕方はあるんじゃないかと思いますが。

 例えば、現代でも、一部では出世に有効とされている、「カネとコネ」とか。

 清盛の父・忠盛さんは財産家。それに、残された逸話なんかを見ると、なかなか魅力的な人物だったみたいなんですよね。

 白河院やその側近にも気に入られていたみたいだし。

 それに清盛の母が、白河院の寵愛を受けた祇園女御の関係者というなら、その子供を白河院がえこひいきしたって、別におかしくない気がします。 

 

自分でも「確かに覚えず」というほど落胤が居たのに、その全てをいちいち出世させたのか。

全員でなくても、他にも異例の出世を遂げた「落胤」候補が居たなら話は別ですが……。

 むしろ、清盛の成功を快く思わない当時の貴族たちが、

「あいつは白河院の落胤だからしょうがないさ」

と納得するための方便だったんじゃないでしょうかね。

清盛にとっても、この噂を否定するより、利用した方が都合はいいわけですし。

 

事実はわかりません。この「清盛落胤説」については、今のところ、はっきりした証拠はないようなので。

ただ、どうせ想像するしかないことなら、自分好みの想像をしたい。それも1つの歴史の楽しみ方かな、と管理人は思います。

 

 清盛の母が、仮に白河院の愛人その1だったとして。

 忠盛さんの方が彼女に惚れてしまい、ひそかに通じていた、というのはどうでしょう。

 それを知った白河院、お気に入りの忠盛さんのことだし、愛人の1人くらい連れていけ、とあっさり許したのかもしれません。もちろん、大っぴらにはできませんから、詳しい事情は伏せて。

 

 いずれにせよ、清盛の母親は、忠盛さんにとって最初の妻であり、彼がのちに正妻とされる藤原宗子と結婚したのも、清盛の母親が亡くなった後のこと。

 権力者の愛人を打算で妻に迎えたっていうんじゃなく、ちゃんと恋愛関係もあった、という方が、話としてはいいですよね。



3、院と上皇と法皇はどう違う?



 皇位を退いた帝には、「院」「上皇」など、複数の呼び名があります。まぎらわしいので、簡単に説明。

 

 まず、「上皇」というのは、次の帝に位を譲った人のこと。「太上天皇」の略だそうです。

「太上」の意味はよくわからなかったんですが、中国では昔、位を退いた皇帝を「太上皇」と呼んだので、その辺りが由来ではないかと言われてるみたいです。

 で、この「上皇」が出家すると、「法皇」と呼びます。

「遙か3」に出てくる後白河院は既に出家していますので、「上皇様」ではなく、「法皇様」と呼ばれています。

 

一方、「院」は一種の称号で、譲位した帝だけでなく、皇后や皇太后なども「○○院」という呼び名を送られることがあります。

 安徳帝の母・建礼門院などがその例です。


4、頼朝が三十路過ぎて挙兵した理由



 源頼朝は、幼い頃から源氏の後継ぎとして育てられました。

 それが13歳の時、父・義朝が「平治の乱」で戦い敗れたために、一転、流人の身分に。

 それから、およそ20年の時を経て挙兵に至り、平家を滅ぼして鎌倉幕府を起こします。

 結果だけ見ると、父の仇である平家への復讐を誓い、苦労を乗り越えてそれを成し遂げたみたいですけど、20年近くも延々とその機会を狙っていたのかというと、さすがにそれは不自然だろうと管理人は思うんですよね。

 

 そもそも、「平治の乱」を起こしたのは義朝です。それも世のため人のために義憤に燃えて、とかじゃなく、昇進の不満とか、権力者への恨みとかが理由であったとされています。

まあ本当に本当の理由はわかりませんけど、力づくで帝を幽閉して目的を果たそうっていう、あまり誉められたやり方じゃなかったことは確か。

 もしも平治の乱の前に、平家と義朝の間に密約でもあって、「俺たちも協力するから」って言ってたのに裏切った、とかいうなら話は別ですよ。

 でも、そうでないなら、恨むべきなのはむしろ父親の方だろうと……。

 

 ちなみに「流人」といっても、伊豆での生活は、そんなに不幸なものでもなかったようです。

 乳母とか従者も一緒で、まあ多少の不自由はあったかもしれないけど、それなりの暮らしはしていた感じ。

かなり遅いとはいえ、結婚して、一女も儲けてますしね。

その頼朝が、なぜ三十路を過ぎて、挙兵というギャンブルに踏み切ったのか。

これもやっぱり、本当の理由はわかりませんが、当時の社会情勢というのも大きかったんじゃないかな、と管理人は思います。

 

 以仁王の乱で、平家打倒の命令書がばらまかれ、自分の所にもそれが回ってきて。

 源氏方の武士が叛乱を起こすんじゃないか……という憶測が流れ、不穏な空気が周囲にあふれて。

 東国には、平家寄りの武士も多く居ます。そんな中、河内源氏の後継ぎだった自分が、果たしてこのまま無事で居られるだろうか。

 

 事実、頼朝の同母弟で、土佐に流されていた希義は、平家寄りの武士に攻められて斬首されています。

頼朝の挙兵より後のことだとされていますし、希義自身が反平家の行動を起こそうとしていたという説もありますが、真偽はわかりません。もしかしたら、念の為に討っておけ、程度の理由だったのかもしれない。

 

 頼朝が自主的に挙兵したのか、それとも、やられる前にやれ、と一か八かで挙兵に踏み切ったのか。

 そうしたかったのか、そうせざるをえなかったのか。

 いずれにせよ、頼朝は戦に勝ち、歴史に名を残す人物になったわけですが……。


5、合戦の実像



「平安時代の合戦にはルールがあった」。

 ……という話、多分、聞いたことのある人も居るかと思います。

 あらかじめ合戦の場所と時間を決めていたとか、戦いの前に名乗りを上げて、合図と共に攻撃を開始した、とか。

 本当だったとしたら、えらくのほほんとした合戦ですよね。

 ここでは、その話の真偽について、少しだけ考えてみたいと思います。

 

「内乱の背景」の所でも書きましたが、平安時代の日本には、各地に「有力者」が居て、それぞれ武装していました。

 時には、領地を巡るいざこざから、戦乱に発展することもあったようです。

 地方の有力者同士の争いなんて、普通だったら、国が放っておかないだろうと思うところなんですが……どうも、実際には放っておくことの方が多かったみたいです(笑)。

 正確には、こうした争いは基本「私闘」であるとされていました。

 私闘なんだから、自分たちで解決しろ、という(笑)。

 

まあ理屈はともかく、都から遠い場所に軍隊を送ろうとしたら、兵糧やら、兵力の確保やら、色々と大変です。

国家に対して反乱を起こした、というならいざしらず、地方の領地争いに逐一対処するような意志も、力も、当時の朝廷にはなかった、ということなのかもしれません。(そもそも、「国軍」ってものが存在してなかったし)

 

また、「地方の有力者」は、朝廷の貴族や、有力な寺社勢力などと姻戚関係、あるいは主従関係などを結んでいることが多く、それが話を複雑にしていた面もあります。

 争いの一方の当事者が有力な貴族の親戚で、もう一方には有力な寺社の後ろ盾が……というのでは、手が出しづらいですよね。

 

争いの当事者たちにしても、戦いが大きくなり過ぎれば、結局は自分たちの首を絞めるわけで、適当な所で手打ちにしていたみたいです。

つまり、この「ルールのある合戦」とは、地方の有力者同士で揉め事が起きた時の、いささか荒っぽい解決法みたいなもので、それを果たして戦争と呼んでいいのか――かなり微妙ですよね。

「私闘」と呼ぶのが、実際ふさわしかったのかもしれません。

 

 一方、朝廷が兵を集めて反逆者を討伐する場合、このルールは必ずしも適用されません。

だって、相手は朝廷に仇なす敵=「朝敵」ですから。問答無用で討伐しちゃっていいんです。

九郎義経が、奇襲に次ぐ奇襲で平家を倒したのには、「源氏から見れば、平家は朝敵だった」が、「平家は安徳帝を要しており、自分たちは朝敵だと思っていなかった(つまり、合戦にはルールを適用すべきと考えていた)」という側面もあったのではないか、と思います。

 

 あと、有名な「倶利伽羅峠の戦い」において、義仲が平家を打ち破った、これも「奇襲」です。

この時、「朝敵」だったのは間違いなく義仲側です。十万近く〜四万余とも言われる討伐軍に対し、その十分の一〜半分以下ほどの兵力しか有していなかったとされています。

寡兵で大軍に勝つには奇襲しかない、って考えてみれば当たり前の話なんですけど、どうも平家は真面目に備えてたようには見えないんですよね。

これも、義仲の側は、何でもありのいわゆる「戦争」をやっており、平家側は「朝敵討伐」をやっているつもりだった、と言うこともできるかと思います。

 

 ……のん気だな、平家。

 でも、平安時代の日本においては、それほど非常識な考え方ではありません。

国土の狭い日本で、みんなが「何でもあり」の戦争を始めたら、あっという間に焦土になっちゃいます。

こういうのん気さは、狭い島国でみんなが生きのびていくための、一種の知恵、文化と言ってもいいんじゃないでしょうか。

そう考えると、源平合戦で敗れた平家は、ますます貧乏くじを引いたことになりますけども。




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