鮮やかに咲く、真夏のひまわりみたいに(5)

 

 どこをどう歩いたかは覚えていない。

 ただ、随分長い間、横浜の町をあてもなくさまよい歩いていた気がする。

 ――弾けなかった。

 覚悟していた、つもりだったのに。

 このままここで終わりたくない――そう決心して、故郷を出たのに。

 冥加の前で弾けなかった。昔とは変わった自分を、見せることができなかった。

 ――昔とは変わった自分?

 そんなの、見せられるわけがない。

 だって私は変わっていない。少しも成長してなんかいやしない。

それどころか、下手になった。あの頃より、いろんな人にほめてもらえた小さな頃より、下手になった。

 もう私のヴァイオリンなんかじゃ、誰にも認めてもらえないんだ。

 誰にも、誰にも――。

「ひっく……」

 涙がにじんで、頬をつたう。

 泣きながら歩くかなでを、道行く人々が眉をひそめて振り向く。それに構う余裕もないほど、かなでは打ちひしがれていた。

 ――これから、どうしたらいいんだろう。

 律や大地の前に行って、やっぱり私には弾けません、って言う?

 そしたら2人の目にも、冥加と同じ、失望の色が浮かぶのだろう。

 ――嫌だ。

 あきらめるのは嫌だ。みんなにがっかりされるのも、迷惑をかけるのも嫌だ。

 じゃあ、どうするの。どうすればいいの?

 私は弾けない、弾けない、弾けないのに――。

「………?」

 かなでは顔を上げた。

空耳だろうか?今、かすかにヴァイオリンの音が――。

そこは何の変哲もない交差点だった。大勢の人や車が、ひっきりなしに通り過ぎていく。

もちろんヴァイオリンを弾いている人なんて居ない。こんな騒々しい場所で、演奏なんてできっこない。

(だけど、聞こえる――)

 道行く人々のざわめきや喧騒を縫って、かすかに遠く。

 ほんの数時間前、森の広場で聞いた曲――『2つのヴァイオリンのためのソナタ』。

 まるで時間が巻き戻されたみたいだった。

――この音色の先に、あの人が居る?

 普通に考えれば、そんなことあるはずがない。疲れとショックで、幻聴でも聞いたんだろう。

だけど、その時のかなでは、まともに物を考えることもできなくなっていた。

かなでは歩き始めた。

痛む足をひきずり、1歩、また1歩。かすかなヴァイオリンの音を追って。

 

     ☆     ☆     ☆

 

 やってきたのは山下公園だった。

 港に面した臨海公園で、横浜を代表する名所のひとつ。

景色もいいし、緑豊かで、のんびり散歩を楽しむにはうってつけの場所だ。

星奏の生徒にとっては、学院から近く、楽器を弾いても近所迷惑にならない、貴重な練習場所でもあった。

 かなでは足を止め、辺りを見回した。

 散歩するお年寄りが居る。海辺で遊んでいる家族連れが居る。デート中らしい男女が居る。

 それから。

 自分の見ているものが、にわかには信じがたかった。

 しかし、目の錯覚でも気の迷いでもなく。

すぐそこの木陰でベンチに腰を下ろし、東金が楽譜を読んでいる。

(本当に、居た……)

東金の傍らには、愛用のヴァイオリンケースがあった。

 楽譜を目で追いながら、たまに指で拍子を取ったり、フレーズを口ずさんだりしている。

 いわゆる「譜読み」の最中らしく、ついさっきまでヴァイオリンを弾いていたという風には見えない。

 さっきの音色は、やっぱり空耳だったんだろうか?

 何でもいい。

かなではふらふらと、夢遊病者のような足取りで東金に歩み寄った。

譜読みに没頭している東金は、最初かなでの存在に気づかなかった。

 ふと、顔を上げ――いつものように、ちょっと意地悪く笑う。

「どうした、地味子。また俺に会いに来たのか?」

「…………」

 かなでは黙ったまま、さらに1歩、東金に近付いた。

 ただならぬ気配を察したのだろう。東金がベンチから腰を上げる。

「おい、どうし――」

 がくん、と両膝から力が抜ける。

「っ!」

 そのまま、地面に倒れる寸前、東金の腕がかなでを支えてくれた。

「どうした、だいじょうぶか?」

 ほとんど抱きしめられるような格好になって、しかも至近距離から見つめられて、かなでは狼狽した。

 とっさに突き飛ばすように東金から離れ、それから自分のしてしまったことに気づいて、さらに狼狽する。

「ご、ごめんなさい、私……!」

 東金は怒らなかった。

「それより、どうしたんだ。気分でも悪いのか?」

 ――どうしたんだ。

 そう聞かれて、一旦は止まっていた涙がまたあふれそうになった。

 東金がぎょっと目を見開く。

「なんだ、何があった?」

「わた、私っ……!もう、ヴァイオリン、弾けなっ……!」

「落ち着け、地味子。ガキみたいにわめいてないで、ちゃんとわかるように説明しろ――」

「だめなんですっ!弾けって言われたのに、弾けなかった……。もう、無理なんですっ!」

「…………」

 かなではひたすら錯乱し、わめき続けた。

初めのうちこそかなでを落ち着かせようとしていた東金も、「弾けない、弾けない」と繰り返すだけのかなでに、筋道だった説明をあきらめたらしい。

 軽く腕組みしてかなでを見下ろし、

「だったら、弾くな」

と冷たく言い捨てた。

「1stヴァイオリンをやるのも、コンクールで勝つのも、全部あきらめろ」

 取り乱していたかなでも、『コンクール』の一言には、少しだけ正気づいた。

「そんなこと、できません……。みんなに迷惑かけちゃう……」

 ハッと東金が笑った。

「迷惑だ?弾けないって奴が1stで居る方がよっぽど迷惑だろうが。違うか?」

「……でも……だって……」

「だって、じゃねえ。無理だと思ってるなら、今すぐ下りろ。全国では、如月の弟が1stをやればいい。兄貴には遠く及ばないが、地方大会での演奏聞く限りじゃ、今のおまえよりはよっぽどマシだろうさ」

 かなでは反論できずに口ごもった。

そんなかなでを、東金は静かな瞳で見据えた。

「誰も、おまえに強要しやしない。弾くか、弾かないか。決めるのはおまえ自身だ」

「…………」

「で、どうする?」

 弾くか、弾かないか。

 突きつけられた二択は、あまりに重過ぎて。

 口ごもるかなでに、東金は言った。

「答えられないっていうのは、この場合、ひとつの答えだぜ。おまえはヴァイオリンを弾きたくないんだな?」

「……っ!ひ、きたい、です」

 ほとんど反射的に言い返すかなでに、

「なら、やれ。つべこべ言うな」

 東金の答えは、至ってシンプルだった。

「でも、弾けない、んですっ!」

「なら、弾くな」

「…………」

 かなでは東金の顔をにらんだ。どこまでも迷いのないこの人が、少しだけ恨めしくなった。

「なんだ、その目は。俺が何かおかしなことを言ってるか?」

「…………」

「ったく。いきなり現れたと思ったら、わけのわからないことをわめき散らすわ、挙句にふてくされるわ。おまえはガキか?会ったばかりの男の前で、よくもまあ、そこまで素の自分をさらせるもんだよな」

みっともねえ。そうつぶやいて、にやりと笑う。

「………?」

 かなでは不思議そうに瞬きした。

 言葉とは裏腹に、東金の声には迷惑そうな響きがない。

 いや、それよりも。

 傍らのベンチに置いたままだった自分のヴァイオリンケースを開け、調律を始めたではないか?

「東金さん……?」

「何ぼけっとしてんだ。おまえも早くしろ」

「え。は、早くって……」

「弾き方がわからないんだろ。特別に教えてやる」

「え、え、え、……」

 予想外の展開に、かなではおろおろした。

 弾き方を教えてくれる?だってそれは、さっき断られたはずで――。

「確か、敵に塩は送れないって……」

「ハッ、今のおまえのどこが敵だ。みっともなく泣きわめくだけの駄々っ子じゃねえか」

「…………」

 そう言われてしまえば、返す言葉もない。

 本当に、今の自分はみっともない。

 同じ学校の先輩でもない、もちろん家族でも幼なじみでもない人にすがって、駄々をこねて。ずうずうしいのを通り越し、無様で滑稽だ。

「まあ、でも、そういう時もあるよな」

 不思議なのは、そんな自分を東金が怒らないこと。それどころか、普通に話をしてくれること。

「必死でやってもうまくいかない。そのうちわけがわからなくなって、1人じゃどうにもできない」

 そう言って、愛用のヴァイオリンに軽く弓を走らせる。

「そんな時に、道を示してくれる誰かに会えるかどうか。……無論、本人のやる気が大前提だが、それも1つの分かれ目には違いない」

 調弦を続けながら、独り言のように言葉を続ける。

かなでは顔に涙の筋をつけたまま、黙って東金の言葉に耳を傾けた。

「幸運にも、そういう相手に巡り会えた人間には、義務がある。同じように道に迷ってる誰かに会った時、少しだけ背中を押してやる――義務がな」

 そこで東金は口をつぐみ、まっすぐにかなでを見つめた。

「それが今、おまえを助ける理由だ。ほら、早くしろ。長くは付き合わねえぞ」

「…………っ!」

 かなでは大急ぎで涙をぬぐい、ついでに鼻もかんでから、調弦を始めた。

 準備が整うまで、東金は無言で立っていた。

 真剣過ぎて、怖いくらいなその表情。

 誰かに似ていると思ったら、いつもかなでにヴァイオリンのレッスンをしてくれる時の律だった。

 神南で部員を指導する時、東金はこういう顔をしているんだろうか。ひょっとして、見た目によらずスパルタなのかも。

「よし、いいな」

心なしか、話し方もいつもよりきびきびしている。

「練習はなしだ。一回だけ合わせるぞ。曲は――」

 ヴァイオリンを構え、曲を奏でる。

 最初の1フレーズですぐにわかった。

ヴィヴァルディの『冬』。

「……っ!その曲……!」

「地方大会の課題曲だったから、弾けるだろ。おまえは確か2ndだったな。俺が1stを弾く。多少遅れてもいいから、とにかく最後までついてこい」

 有無を言わさず命じる東金に、

「ちょっと待ってください!」

とかなでは叫んだ。

 あ?と東金が不機嫌に応じる。

 その曲は嫌だ。弾きたくない。

『冬』の第1楽章は、東金も言った通り、地方大会の課題曲だった。

 冥加も――この曲を弾いた。会場全体を一瞬で真冬の世界に連れ去るような、無慈悲なまでに完璧な演奏だったそうだ。

 かなでは遅刻したせいで、直接聞いたわけではない。

 しかし仲間たちに話を聞いた時から、かなでにとっての『冬』は、冥加を象徴する曲となっている。

 冷たくも美しい旋律が、あの人のまなざしを思い起こさせる。

「その曲は、あの、今は弾けなくて……できれば、別の曲で……」

 どうして、と理由を聞くことすら、東金はしなかった。

「ごちゃごちゃうるせえな。おまえ、選曲に文句を言えるような立場か?」

「……っ!」

「さっさと始めるぞ。……ああでも、そうだな。その前に――」

 曲を弾き始めようとした東金は、一旦、構えを解いて、かなでを見下ろした。

「ひとつだけ忠告しておく。言葉には力がある。おまえがさっきから寝言みたいにしつこく言ってる『弾けない』って言葉も、繰り返してればそのうち本当になる」

「!」

 息を飲むかなでに、東金は冷たいほどそっけなく告げた。

「おまえがヴァイオリンをやめたって、俺は別に困りゃしないが……おまえはいいのか?本当に、このまま曲が弾けなくなっても?」

「…………」

 かなでは無言で東金の顔をにらみ返した。

 いいわけがない。

 どれだけ弱音を吐こうと、泣き叫ぼうと、かなでには、ヴァイオリン以外に何もありはしないのだから。

「嫌なら、弾け。余計なことは何も考えずに、俺の音だけを追ってこい」

 東金は怒ったように言い捨てると、元通りヴァイオリンを構えた。

「おしゃべりは終わりだ。――行くぞ」




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