鮮やかに咲く、真夏のひまわりみたいに(4)

 

小さい頃は、ただヴァイオリンを弾いているだけで楽しかった。

自分の指先が奏でる音の粒。それらが連なり、生まれる旋律。

音楽の世界は不思議で、複雑で、楽しかった。

――ヴァイオリンが好き。もっと、もっと弾きたい。

幼いかなでは、ただ純粋に音楽を楽しみ、愛していた。

かなでの故郷は、信州の山奥にある小さな田舎町。クラシック音楽とはあまり縁のない場所だったけど、幸い、地元の高校にはヴァイオリンを教えることのできる先生が居て、かなでは小学生の内から彼女の指導を受けることになった。

やがて師の薦めにより、国内のジュニアコンクールにも出るようになる。

大人はみんな、かなでの演奏をほめてくれた。審査員の先生も、外国から来たという有名な指揮者や演奏家も。

だけど、かなでが1番嬉しかったのは、唯一の身内である祖父が、自分の演奏をほめてくれること。

かなでの祖父はヴァイオリン職人だった。幼いかなでに、音楽の世界を教えてくれた人でもある。かなでの演奏を誰より愛し、誇りに思ってくれていた。

祖父の誇らしげな顔が見たくて、もっともっと喜んでほしくて、かなでは師の薦めるコンクールに出続けた。

いつしかコンクール荒らしとさえ呼ばれ、国内のジュニアでは注目の的となっていたのだが、当のかなでは、それを深く考えたことはなかった。

誰かと競い合って勝つということの意味も。

たまに楽屋裏で、自分に負けた他の参加者の子たちが泣いているのを見て、かわいそうだなと思うことはあったけど。

彼らにはだいたい優しそうなお母さんや先生が居て、慰めてもらっていたし。

コンクールの結果が、時に人の一生を左右することもあるだなんて、幼いかなでには想像もつかなかったのである。

それは偶然だった。

偶然、通りかかった楽屋裏で、かなでは聞いてしまった。

同じコンクールに出ている男の子。

見た目はちょっと怖そうだけど、本当は優しいところもあると知っているその子が、どうしてもコンクールに勝たなければならない理由があるのだと。

彼には両親が居なかった。かなでの祖父のような優しい家族が居るわけでもなかった。

ただ、守らなければならない、小さな妹が居た。

彼が、このコンクールで勝てば。

有名な指揮者の先生が、彼と妹を引き取ってくれる。ちゃんと音楽の勉強ができるようにしてくれる。

だけど彼の実力では、かなでに勝つことはできない――。

だったら話は簡単だ。自分がコンクールを辞退すればいい。

だって、自分にはその子のように大変な事情はない。どうしても勝たなければならない理由があるわけじゃない。

白状すると、かなでは出会ったばかりのその少年に、ほのかな好意を抱いていた。

ヴァイオリンの弦が切れて困っていた時、たまたま通りかかったその子が助けてくれたのだ。

泣いているかなでを慰めて、切れた弦の代わりに、とってもキレイな金色の弦を張ってくれた。

男の子にそんな風に優しくされたのは、幼なじみの律と響也以外では初めてのことで。

嬉しかった。お返しがしたいとも思った。彼の役に立てれば――そう思って辞退を申し出たのに、かなでのしたことは、少しも喜ばれなかった。

それどころか、少年は怒りも露わに、かなでを罵倒した。

――俺はそんなに哀れに見えるか。

――おまえにとって、真剣に戦う価値もないと?

――おまえは俺の存在を侮辱した。絶対に許さない。何があっても、一生、憎み続けてやる。

かなではショックだったし、何より怖かった。

だから、その日の記憶を、深く深く封じ込めていたのだ。

少年の名は冥加玲士。

天音学園・室内楽部の部長。

国際コンクールの入賞経験もある、学生ヴァイオリニストとしては屈指の実力者。

ソロ・アンサンブル共に今大会の優勝候補であり、星奏がコンクールを勝ち進むなら、いずれ必ず戦わなければならない相手だ。

かなでが冥加と再会したのは、今からおよそ一ヶ月前のこと。

向こうはかなでを忘れていなかったが、かなでは7年前のコンクールのことさえ忘却していた。

彼と話し、彼のヴァイオリンを聞くことで、少しずつ、ほんの少しずつ、閉じていた記憶の蓋がひらいていったのだ。

今ではほとんど全て思い出している。自分と冥加の間に、過去、何があったか。

同時に、小さい頃はわからなかったこと――自分が冥加に憎まれる理由も、ある程度は想像できるようになった。

あの時、冥加は真剣だったのだ。自分の全てを賭けるつもりで練習を重ね、誰にも負けない覚悟でコンクールに臨んでいた。

幼くして二親を亡くした彼にとって、音楽は、ヴァイオリンは、自分という存在を支えるものでもあったのかもしれない。

他人に同情され、勝利を譲ってもらう。それが、どれほど深く彼を傷つける行為であったか。

もちろん、悪気があってしたことじゃない。

ただ、結果的に傷つけてしまった。だから、冥加がそのことでかなでを憎んでいるというなら、それは多分、仕方のないことなんだと思う。

今更謝ったり、弁解したって意味がない。かなでもそんなことをしたいとは思わない。

ただ――。

あれ以来、かなでは「コンクール」というものが怖くなった。

人と競い合い、優劣を決めるのは、楽しいことばかりじゃない。

コンクールで勝てば、得るものはある。しかしそれは、他の参加者を押しのけて得られるものだ。

時に誰かを傷つけ、何かを奪うことだってある。

それを思い知ってしまってから、人前で弾くことすら、心のどこかで恐れていた気がする。

東金にはっきり言われなければ、おそらく気づくことはなかっただろう。

この恐れを乗り越えない限り、きっと、自分の演奏は変われない。

そう思ったから。

学院からの帰り道、見覚えのある白の長ランが自分の前を行くのを見た時、かなでは迷わず声をかけていた。

「冥加さん!」

 ゆっくりと振り向く、長身の影。

「何の用だ」

 冥加玲士はいつもそうするように、怜悧で冷徹な瞳でかなでを見下ろした。

「あいにく、俺は貴様と馴れ合う暇などない」

 瞳だけではなく、その声も、身にまとう空気も。ただ目の前に居るだけで、体の芯から凍えるように冷たい。

 かなではお腹の辺りにぐっと力を込めて、

「お話したいことがあります」

と言った。

そうして、話した。7年前の冥加との因縁を、かなでが全て思い出したことを。

冥加は驚いた顔をした――ただし、最初の内だけ。ほどなく威圧的な無表情に戻り、かなでの話が一区切りしたところで口をひらく。

「それで?貴様がそれを思い出したからどうだというのだ。恨み言でも言いたいのか。……それともまさか、あの時は悪かった、とでも言うつもりか?」

「あの時は――」

 かなでは冥加の冷たい瞳をにらみ返した。

別に怒っているわけじゃない――そうしないと、怖くて気持ちが挫けそうになるからだ。

「あの時は本当に、どうしても勝たなくちゃいけない理由はないって思ったんです」

 冥加の瞳に宿る侮蔑の色。すかさず、かなでは言った。

「でも、今は違いますから」

 そう、違うはずだ。

 共に演奏する、仲間たちのためでもある。ケガを押して頑張ってくれた、部長の律のためでもある。

 そして何よりかなで自身が、そう願っている。自分の演奏を変えるために、これから先もヴァイオリンを続けていくために。

「今は勝ちたい。このコンクールだけは、どうしても負けたくないって思ってます」

 虚を突かれたように見開かれた冥加の瞳が、やがてゆっくりと笑みの形に歪む。

「ほう――それはいい。貴様が本気で勝ちたいというなら、俺はその願いを木っ端微塵に打ち砕くまでだ」

「…………」

 かなでは冥加の暗い笑みを見つめた。

 やっぱり、この人は――。

「今でもあの時のこと、怒ってるんですか?」

 スッと冥加の瞳が冷えた。

「怒り、などという生易しい感情なものか。貴様は俺の存在そのものを否定した」

「そんなつもりは、」

と言いかけるかなでを制し、

「では、どんなつもりだ。競う価値さえないと見下して、それで慈悲をかけたつもりだったのか?」

 言い募る冥加に、かなでは唇を噛んで沈黙した。

 見下したつもりなんて、ない。

 あの頃のかなでにとって、コンクールは誰かと競うために出るものじゃなかった。好きなヴァイオリンが弾けて、周りの人が喜んでくれる。ただそれだけのものだったのだ――。

 だけど、それを今、この人に言ったところで意味はないんだろう。

 過去が変わるわけじゃない。

 冥加がどうしても自分を許せないというなら――仕方ない。

「お邪魔してすみませんでした。失礼します――」

 かなでは一礼して、その場を立ち去ろうとした。

「待て」

 背中から、冥加の声。

 かなでは立ち止まり、振り向いて、冥加の顔を見た。

 一瞬、その姿に、赤い髪の少年の姿がかぶった。

 随分面差(おもざ)しが変わったけれど、それでも目の前に居るのは、7年前のコンクールで出会った、あの男の子だ。

 冥加は背が高い。昔もかなでの方が小さかったが、あの時よりさらに差がついてしまった。

 ヴァイオリニストとして、海外でも高い評価を得ている冥加は、既に大人と変わらない風格をその身にまとっている。

 この7年で、冥加は大きく成長を遂げたのだ。

一方の自分はどうだろう。ただ漠然とヴァイオリンを続けてきただけで、ちっとも成長できていないんじゃないのか。冥加の顔を見ていたら、ふいにそんな不安が、かなでの胸にわいた。

「弾いてみろ」

「え?」

 一瞬、意味がわからなかった。

「負けないというだけの覚悟を、今の貴様の音を聞かせてみろ」

「……っ!」

 かなでは息を飲んだ。

 ここでヴァイオリンを弾け、と冥加は言っている。

「そんな、こんな所で……」

「場所などどうでもいい。――どうした。威勢がいいのは口先だけか?」

「……っ!」

 かなでは言葉につまった。

 今、冥加の前でヴァイオリンを弾く?

 ――だめだ。まだ早い。

 かなではまだ、自分の『花』を、答えを見つけていない――。

「…………」

 冥加はじっとかなでを見下ろした。

 1分か、2分か。

 いや、実際はもっと短い時間。

 ふっ……と冥加の唇から吐息が漏れる。ゆっくりと長身を翻し、かなでに背を向ける。

 冥加の姿が遠ざかっていくのを、かなでは呆然と、声もなく見送った。

 体が小刻みに震えている。

 怒りでも、憎悪でも、侮蔑でもない。

 冥加の失望の眼差しが、かなでを打ちのめしていた。




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