この夏が過ぎたら(7)

 

 大地が小日向かなでのことを知ったのは、コンクールの出場メンバーを決める、オケ部の部内選考会の時だった。

 その頃の彼女は、新しい環境にまだ慣れていなかったせいだろう。どこか不安そうで、心細そうに見えた。

女の子には親切にするのが信条の大地としては、当然、放っておけなかった。……見た目も、小さくて可愛かったし。

ちょっとなれなれしいくらい親しく声をかけ、困っているようなら世話を焼いた。

そんな大地の接し方に、最初、彼女は戸惑いを隠せない様子だったが、「幼なじみの律の友人」というのが効いたのか、間もなく打ち解けた。

 正直、信用するのが早過ぎだろうと思うくらいだった。

 基本的に、彼女は素直な性格だった。子供のように正直な反応がおもしろくて、ついからかったりもしたものだ。

 一言で言えば、可愛い後輩。しかし、恋愛対象としては、守備範囲の外。

 それが大地にとっての、小日向かなでだった。いや、そのはずだったのに――。

いつからだろう。あのひたむきな瞳に、心が波立つようになったのは。

 弱々しくて折れてしまいそうな肩に、強さを見出すようになったのは。

 わからない。中学の頃から、女の子とはそれなりに付き合ってきたはずの大地であるが、今回ばかりはその経験も役に立たなかった。

 気づいた時には、恋に変わっていた。

 ――君に1stヴァイオリンは無理だと思っている。

 地方大会の翌日、大地は彼女にそう告げた。

 酷な言葉だということはわかっていた。

 それでも、3年間を賭けてきた目標――全国制覇の夢と天秤にかけた時、たとえ彼女を傷つけることになるとわかっていても、それを言わずにおくという選択肢はなかった。

 彼女は、大地の言葉を黙って聞いていた。

 反論しなかったのではなく、できなかったのだと思う。

 彼女にもわかっていたはずだ。律の代役として、全国大会という舞台で1stヴァイオリンを弾く、その責任の重さが。

 今の自分では、力が足りないことも。

 同時に、そんな自分を律が指名したことにひどく戸惑ってもいた。

 律は極端に言葉が足りないところがあるから――。事実、あの段階では誰も、大地ですら、その真意はわからなかった。

 とはいえ、律の真意が何だろうと、実際に弾くのは彼女だ。

 1stヴァイオリンをやるのか、やらないのか。答えを出すよう、大地は彼女に迫った。

 彼女は、迷っているようだった。

 ――そして、その翌日。

 忘れもしない、あの説明会の日。

たまたま会場で遭遇した神南の部長・東金千秋に、彼女は演奏を酷評されてしまう。

「おまえに1stヴァイオリンは無理」と、東金は大地と同じことを言った。いや、大地よりもさらに率直で、悪意がない分、容赦もなかったと思う。

 彼女はかわいそうなくらい落ち込んでいた。

前日に同じことを言った大地には、東金の言葉を否定してやることはできなかった。

それでも仲間として、せめて元気付けるくらいはしようと思い、彼女を散歩に誘った。

その結果、何が起きたか。

会場からほど近い海沿いの公園で、神南の路上ライブに遭遇し、彼女は初めて東金の演奏を聞くことになったのである。

声もなく涙をこぼしていた彼女の横顔を、大地は忘れられない。

その段階では、それは恋ではなく、東金の奏でる音色に魅了されただけだったのかもしれないが。

いずれにせよ、その出来事が彼女に与えた影響は小さくなかったようだ。

別れ(ぎわ)、彼女は大地に言った。

全国大会で、1stヴァイオリンをやりたい。自分にやらせてほしいと。

まっすぐに、大地の目を見て。

彼女のあんな強いまなざしは見たことがなかった。それまで知らなかった彼女の魅力を知ると同時に、苦い敗北感が大地の胸を占めた。

彼女に決意させたのが、自分の言葉でないことは明白だったから。

それからセミファイナルまでの短い期間で、彼女のヴァイオリンは信じられないほど輝きを増した。

その理由は、ずっとそばで練習していた大地にすらわからない。

ただ――律に聞いたところでは、彼女は過去に何らかの原因で自信を失い、長いスランプに陥っていたらしい。

何かのきっかけで、スランプから立ち直った、というのはありえない話ではないだろう。

理由はどうあれ、今では彼女抜きのアンサンブルは考えられない。

彼女の音を中心に、後は他のメンバーがうまく音を合わせられさえすれば、相手があの横浜天音学園でも、十分全国優勝を狙えると大地は思っている。

結果的に、律の判断は間違っていなかったわけだ。

ただ、その過程で、彼女は恋をした。

そして大地にとっては不本意極まりないことに、そのきっかけを作ったのは、他ならぬ自分なのだ。

あの日、あの場所を通らなければよかった――大地は今でも悔やむことがある。

いまや彼女の視線は、東金に釘付けだ。当人に自覚があるのかどうかは怪しいが、あの様子では、いずれ遠からず気づく。

東金の方も、彼女に興味を持っているように見える。

ただ、彼女ほど感情が読みやすいわけではないから、それがどの程度の「興味」かまではわからない。

ここ最近、大地は東金のことを注意深く観察していた。

結論としては、いかにも遊んでいそうな見た目とは裏腹に、人間的には、ある程度なら信用してもよさそうだと思えた。

例えば、後腐れのない他校の女子だから、適当に遊んでやれ――ということをやるタイプには見えない。

むしろ問題なのは、いつも東金のそばに居る土岐の方だろう。

こちらは正直、欠片も信用する気になれない。あまり認めたくはないが……自分と似たタイプに見えるからだ。

いかにもわかりやすい小日向かなでの好意に、気づいているのか、いないのか。気づいたとして、妙なちょっかいをかけやしないか。土岐の目が彼女の方を向くたび、大地は気が気でなかった。

「小日向は、俺にとって、大切な存在だ」

 物思いに沈んでいた大地の耳に、律の声が聞こえた。

一言一言、区切るように、

「だが、おまえの言うような感情が、自分にあるのかどうか――俺には確信が持てない」

 律、と大地は友人の名を呼んだ。

「すまない、大地」

 いつもと同じ、冷静な声。だがその中に、かすかな動揺の微粒子を大地は感じ取った。

 無意識に硬く握り締めた拳が、それを証明している。

(やっぱり、そうなんだな……)

 初めて2人を見た時から感じていた。彼女は、律にとって特別な存在なのだと。

 しかし恋愛には疎い律のこと、放っておけば、彼女の恋にも、自分の気持ちにさえ、気づくことはないだろう。

 だから大地の口から話したのだ。

友人のため、ではない。他ならぬ大地自身のために。

 律が彼女を特別に思っているように、彼女もまた、律のことを特別に思っているように見えたから。

 それは幼い憧憬か、淡い好意か、いずれにせよ、恋の範疇に入る感情を抱いているように見えたから――。 

 自分には望みがなくても、律ならば、まだ彼女の気持ちを動かせるかもしれない。そう思ったのだ。

 それに――2人とも、恋愛に関しては奥手な方だ。仲のいい幼なじみから恋人に変わるまで、きっと長い時間を要するだろう。

彼女が律を選ぶなら、2人のそばで、今とほとんど変わらない関係を続けていける。そんな打算もあった。

(まったく、最悪だな……)

 笑い話にもならない。この行動の結果次第では、自分と律の関係すら変わってしまうことだろう。

 それでも。

 自分はこの選択をした。もう後戻りはできない。

 彼女の想いを知った律が、果たしてどんな行動に出るか――それは大地にも読めないことだった。

 コンクールが終わるまでは、全国優勝という目標が自分たちにある内は、表立った変化は起きないかもしれない。

だが、この夏が過ぎた時、自分たち3人の関係は、確実に今とは違うものになっているだろう。

 ――この夏が過ぎたら。

 漠然とした予感を抱きながら、大地は胸の奥で繰り返した。

 

「この夏が過ぎたら」・おわり 




目次に戻る



サイトの入口に戻る