この夏が過ぎたら(6)

 

 夕食を終えた時には、夜8時を過ぎていた。

「やれやれ。予定より遅くなったな」

食堂から自室に引き上げながら、大地はぼやいた。後から階段を上ってくる律が、

「先生の時間を取らせてしまって、ご迷惑をかけただろうか」

とつぶやく。

 主治医でもある大地の父親のことを、律は「先生」と呼んでいる。

「まさか。だいたい、引き止めたのはあっちの方だ。おまえの方こそ、こんな時間まで親父の長話に付き合わされて、迷惑だったんじゃないのか?」

 少なくとも、大地本人はそうだった。しかし律は真顔で首を振り、

「いや、そんなことはない。先生と話すのは、俺も楽しい。うちの父親とはまたタイプが違うからな」

「楽しいって……。口をひらけば『無理をするな』としか言わないのにか?」

 夕食中の会話は、横で聞いていた大地には説教としか思えないものだった。

 律はやはり真顔でうなずいて、

「それも、先生が俺のことを真剣に考えてくださっているからだ。俺がファイナルに出たいと言った時も、随分反対されたが、最後には協力を申し出てくれた。俺がこの腕で無茶できるのは、先生のサポートのおかげだ」

 だから先生には感謝している、と言い切る律に、大地は苦笑を隠せなかった。

 これだからうちの親父も、律のことが放っておけないんだろう。

 真面目過ぎるくらい真面目で、堅物で、どこまでもまっすぐで――自分の全てを賭けて何かに打ち込むことができる、熱い情熱の持ち主。

 学業もスポーツもそれなりにこなしつつ、余った時間で人並みの青春を過ごせればいい、と思っていたかつての大地にとって、律との出会いは、その後の進路を大きく変えるきっかけとなった。

 律と出会わなければ、自分が音楽をやることなどなかっただろう。まして、全国大会出場なんて想像もできなかった。

「それで、話というのは?」

 大地の部屋に着いてすぐ、律が言った。

 練習の後で、話があるから時間をとれないか、と持ちかけたのは大地の方だった。

 両親が律の顔を見たがっている、というのは響也をごまかすための言い訳だ。本当の目的は、邪魔の入らない場所で、律と話をすることだった。

 学校ではどうしても人目があるし、律の住む菩提樹寮にプライバシーなどないに等しい。

 帰りにどこか店に寄ってもよかったが、ついでに律の左腕の具合を父親に見せるという目的もあった。

 幸い、連日のハードな練習にも関わらず、思ったほどには炎症は悪化していないらしい。

 大地は友人の顔を見つめた――いつものように、軽く笑みを浮かべて。

 別に、楽しいわけではない。

笑顔というのは、本心を隠す仮面だ。

 如月律は、榊大地にとっては数少ない、本音で付き合える友人である。

 ただ、今日の話は、お互いにとって、非常にデリケートな問題を含んでいる。

 仮面はあった方がいい。少なくとも、友人の本心を確かめるまでは。

 律の方は、いつものように部活の用事とでも思ったらしく、

「何か、オケ部で問題でも?」

と聞いてくる。

「いや、違う。ごく個人的な話だ」

 大地はひたと友人の目を見据えた。

「単刀直入に聞く。おまえ、ひなちゃんのことをどう思ってる?」

 一拍置いて、付け加える。

「オケ部の仲間じゃなく、1人の女の子として」

 律は顔にかけた眼鏡を持ち上げ、まじまじと大地の目を見返した。

「それは……つまり、演奏以外の面で、どう評価しているかという意味か?」

 考え込むように1度口ごもり、

「そうだな……。あいつは一見ぼんやりしているようだが、実は他人のことをよく見ている。気配りもできるし、何より人の痛みに共感できる優しさが……」

 大地は軽く手を上げて、友人の言葉を制した。

「悪かった。かなりストレートに言ったつもりなんだが、まだダメだったか」

 先程の質問を言い直す。

「俺が聞いてるのは、おまえが彼女に恋愛感情を持ってるのかってことだよ」

「…………!」

 さすがに今度は通じたらしい。驚きの表情を浮かべて、

「俺が、小日向に恋愛感情を?」

 大地の言った通りに繰り返す。

そこまで意外そうにすることもないだろう。子供の頃から知っている幼なじみで、しかもあんな可愛い女の子で、意識したことが全くない方がおかしい――と、普通なら思うところだ。

 律は腕組みして考え込んだ。

「正直、よくわからない。そういう風に考えたことがなかったからな」

「……だと思ったよ」

 大地はため息と共にうなずいた。

 この友人に関しては、普通の常識は通じない。

 天才タイプにありがちなことかもしれないが、律は音楽やそれにつながることには熱心な半面、それ以外のことには極端に疎い。

殊に、恋愛関係の疎さは絶滅危惧種レベルだ。

 オケ部の部長で、将来有望なヴァイオリニストで、且つ、稀に見る美貌の持ち主である律の周囲には、憧れや好意の目を向ける女子も少なくないのだが、当人はそれに気づいてもいない。……はっきり告白された時でさえ、気づかないこともあるくらいだ。

「でも、考えてみてほしい。少なくとも俺の見た感じじゃ、ただの幼なじみという関係ではない気がする」

「待て、大地。なぜ今そんな話をする?」

 律が待ったをかけた。

「今はファイナルを控えた大事な時期だ。他のことに気を取られている暇はないはずだが……」

 もっともな言い分だった。大地とて、本来ならこんな話をするつもりはなかった。

 鈍感過ぎる友人の姿に苦笑しつつも、生暖かい目で見守っていたはずだ。

「もちろん、わかってる。俺たちにとって、今がどれほど大事な時か……。ずっと一緒にやってきたんだ。俺だって優勝したいと思ってるし、今は何より練習に集中するべきだとも思う」

 だけど、と大地は付け加えた。

「それでは手遅れになりかねない。最近の彼女の様子を見ていると……どうも、他に気になる相手が居るみたいなんだ」

「!」

 律が小さく息を飲む。

「気になる相手……それはつまり、好きな男という意味か?」

 他にどんな意味があるのかと聞きたいところだが、律にしては察しがいい方だった。それは、他ならぬ彼女のことだからだろうか、と大地は思った。

「ああ。そうだ」

「小日向に……好きな男が?」

 衝撃を受けたように繰り返す。大地も苦い表情を浮かべて、嘆息した。

「気のせいならいいと思っていたんだがな……」

しかし小日向かなでは、人一倍素直な性格をしている。

考えていることもわかりやすい。特に、ここ最近の彼女の様子は、明らかにおかしかった。

 熱心にヴァイオリンを弾いていたかと思えば、ふいに遠いまなざしで物思いに耽っていることがある。

 そんな時の彼女は、夢でも見ているような表情を浮かべていて――恋をしているのだと気づくのに、さほどの時間はいらなかった。

「間違いないのか、大地」

 まだ信じられないという様子の律に、大地は逆に質問を投げた。

「聞かないのか、律?彼女が誰を好きなのか」

「…………」

 律の瞳が大きく見開かれる。沈黙し――やがてゆっくりと首を振り、

「……いや、やめておこう。仮に、おまえの言っている通りなのだとしたら……それは、俺が口を出すべきことではないはずだ……」

 律の性格を考えれば、そういう返答が来ることも予想できた。

 しかし実際に自分の耳で聞くと、腹が立った。

 大地は両のこぶしをぐっと握りしめた。

「……本気で言っているのか?」

「ああ、本気だ。部員のプライベートについて、俺が口出しする権利はない……」

「ひなちゃんは、おまえにとってただの部員の1人か?」

「……それは……」

「彼女が他の誰かと付き合うことになっても構わないと、本心からそう思っているか?」

「…………」

 口ごもる律に、大地は強い口調で言い聞かせた。

「目を覚ませ、律。おまえにとっての彼女は、そんな軽い存在じゃない。自分で気がついていないだけで、おまえは彼女のことが好きなはずだ――」

「俺は……」

一見、無表情な律の横顔が、かすかに震えた。

「俺が、小日向を……?違う。そんな風に見たことは1度も……」

「律!」

 ついに耐え切れず、大地は叫んだ。椅子から立ち上がり、友人の肩に手をかけて、

「よく考えろ!いっときの感情に流されて、彼女が不幸になってもいいのか?彼女だって、おまえのことを特別に思っているはずなんだ!ただの幼なじみという以上に――」

「大地――」

 律が驚いた顔で見上げてくる。大地は構わず言葉を続けた。

「彼女の相手は、どう考えても住む世界が違う。この夏の――コンクールの熱に浮かされているだけだ!今なら、まだ間に合う。おまえが、自分の気持ちを口に出しさえすれば!」

 大地の剣幕に戸惑いながら、律が口をひらく。

「大地……。なぜ、そこまで必死になるんだ?」

「!」

 冷たい水を浴びせられたように、頭が冷えた。

 そうだ。もう少し冷静に話をするつもりだったのに……。

「なぜおまえが、そこまで俺たちのことを……?」

「…………」

 ゆっくりと、大地は律の肩から手を放した。

「……別に、ただのおせっかいだよ」

 小さく息をついて、元通り椅子に腰を下ろす。

「おまえがあんまりのんびりしてるから、放っておけなかっただけさ」

 そう言って、気楽に笑って見せる。

 嘘である。

 いくら大事な親友とはいえ、人の恋路に真剣になれるほど、自分はお人よしではない。

 ただ、彼女が他の男に――。

自分以外の誰かに取られてしまうかもしれないと思ったら、じっとしていられなかった。それだけの話だった――。



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