この夏が過ぎたら(5)

 

 あの日のことを、かなでは忘れない。

多分、一生涯、覚えているだろう。そのくらい、かなでにとっては特別な出来事だった。

地方大会が終わって、律に1stヴァイオリンを弾くようにと言われて。

かなでは戸惑ったが、それは律以外の仲間たちも同じだった。

ハルも、響也も、大地も。

特に大地は、はっきり言葉にして反対した。

かなでに実力が足りないのは明白だ、と。

かなでは何も言えなかった。だって、大地の言う通りだったから。

律の代わりなんて、全国大会で1stヴァイオリンを弾くなんて、自分にできっこない。

それでも、自分からその役目を下りることもできなかった。

それをしてしまったら――自分には無理だと認めてしまったら、星奏に転校してまでヴァイオリンを続けてきたことも、今まで努力してきたことも全部、無駄だったと認めてしまうことになるような気がして。

どうすればいいのか。迷い、途方に暮れていたかなでの耳に、あの音色が聞こえたのだ。

東金の奏でる音は、多分、似ていたのだと思う。かなでが憧れて、焦がれて、欲しくてたまらなかった、理想の「音」に。

 あんな風に、弾きたかった。

 東金のように堂々と、自分の音を奏でたかった。

 ほんの少しでも、あの音色に追いつけるように。今はとにかく自分にできることをするしかない、と腹をくくることができたのだ。

 あの日の涙が、かなでの迷いを溶かしてくれた。

 あれからずっと、東金はかなでの目標だった。

この胸の奥にある気持ちは、ニアの言う通り、恋なのかもしれない。あの美しい音色を奏でる美しい人に、自分は心惹かれてしまったのかもしれない、けど。

(だけど、それだけじゃない……)

 かなでにとっての東金は、尊敬してやまない1人の音楽家だ。かなでがずっと欲しかった音をくれた、恩人のようなものなのだ。

 ――だから、心まで欲しがったりしてはいけない。

見かけによらず優しいあの人を困らせてしまうかもしれないし、また迷惑をかけることになったら嫌だから。

 かなではハンカチを取り出し、涙をふいた。

 それから小さく深呼吸をして、ニアの顔を見た。

「驚かせてごめん。別に何でもないから」

「…………」

 ニアは黙ってかなでを見つめた。珍しく真面目な顔だ。かなではそんなニアに向かって、せいいっぱいの笑顔を浮かべて見せた。

「もう遅くなるし、寮に戻ろう?」

「……ああ、そうだな。そうしよう」

 うなずくニア。

 2人で並んで、寮への道を歩く。その間ニアは、かなでが泣いたわけを聞こうとはしなかった。



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