この夏が過ぎたら(4)

 

 大地の父親は、山手で個人病院を経営している。

その専門は整形外科だ。

律が昨年、左手首を傷めてからずっと、主治医として治療に当たってきたのは大地の父親である。

(もしかして、また痛みが出てる……?)

 律のケガは回復している、ファイナルにも出場できるとかなでたちは聞かされている。

 だけど、地方大会の日から、まだ2週間ちょっとしか経っていない。

あの日、見た光景を、かなでは忘れられない。

 弓を取り落とし、手首を押さえ、苦悶の表情を浮かべる律の姿。

 あんなに辛そうにしていたのに、そんな簡単に回復するものなんだろうか?

 まして律は、1stヴァイオリンはファイナルでも小日向にやらせる、と言った。

 たとえかなでがセミファイナルで予想以上の演奏をしたからだとしても、順番で行けば、部長の律が1stをやるのが自然だ。

(病み上がりだから、無理をしないように、ってこと……?)

 そうだとしても、腑に落ちない。

 無理をしないようにと言いつつ、ここ数日の律の気迫は尋常でない。

 いつも以上に集中し、時間をかけて曲と向き合っている。

 その姿はまさに鬼気迫るほどで、かなでは不安を覚えていた。

律が、何か普通ではない決意を持って、ファイナルに臨もうとしているように見えるのだ。

「小日向」

 ニアの声に、我に返る。

 考え事をしながら歩いているうちに、待ち合わせの正門前に着いていたようだ。

「待っていたよ」

 妖精像の影から、髪の長い美少女がひょっこり姿を現す。辺りには夕日の光が差していて、なんだかファンタジーにでも出てきそうな、ちょっと神秘的な光景だった。

 ちなみに妖精像とは、ここ星奏学院のシンボルである。その名の通り、妖精の銅像だ。薄いカゲロウのような羽を持ち、いかにもそれっぽい衣装を着た幼い男の子の姿をしている。

 この星奏学院には、「音楽の妖精の言い伝え」なるものがある。

 学院の敷地には妖精が住んでいて、音楽を志す若者たちに祝福を与えるのだ、とか。そもそも学院の創立自体に、妖精の存在が関わっている、とか。

 かなでは転校してきてからその話を知ったが、「音楽の妖精」の話自体は、ヴァイオリン職人の祖父に聞かされて知っていた。

 だから、妖精の言い伝えを聞いた時、それを信じているのが自分だけではないと知って、とても嬉しかった。

 とはいえ、仮にも学校、しかも正門を入ってすぐの場所にファンタジックな妖精像が鎮座している光景は、大抵の人間には奇異にうつるらしい。

 コンクール期間中、学院の敷地は他校生にも解放されている。

 現在、菩提樹寮に滞在中の至誠館高校、及び神南高校の面々も、あの像には驚いたみたいだった。

 ハルの従兄弟(いとこ)の水嶋新は、おもしろがって写真を撮っていた。

 至誠館の部長、いつも穏やかな人格者の八木沢雪広は、「……かわいい像ですね」と微妙な間を取りつつ、誉めていた。硬派な火積司郎は、「なんでこんなものがあるんだ?」と真面目に首をひねっていた。

 神南の3人は、そろって「理解に苦しむ」という反応だった。

 特に東金や土岐は、かなでにメールまで送って説明を求めてきたため、返信に困った記憶がある。

 今度、理事長に会ったら、あの像がある理由を聞いてみようか。

 あのいかにも現実主義者という顔をした理事長が、あの妖精像にどんな見解を持っているのか――非常に興味があるような、ないような。

「どうした、ぼんやりした顔をして。練習で疲れたか?」

 ニアがかなでの顔をのぞきこんでくる。

「あ、ううん。だいじょうぶだけど」

「まあ、君がぼんやりしているのはいつものことか」

 ニアが言う。その失礼なセリフも「いつものこと」だ。

「渡すものって何?」

とかなではニアに尋ねた。

「ああ、きのうの写真だよ」

 きのうの?

 何のことやら、ぴんとこない。

するとニアは、制服のポケットから1枚の写真を取り出して見せた。

そこに写っていたのは、夜の元町通り。行き交う大勢の人々の中で、見つめ合う男女が――早い話が、昨夜の東金とかなでの姿が写し出されていた。

瞬間、かなでの脳裏に閃くものがあった。

ニアが待ち合わせの喫茶店ではなく、スタジオ近くに現れたこと。

あの時、すでに写真を撮られていた?

愕然とするかなでに、ニアは小悪魔のようなほほえみを向けた。

「なかなかよく撮れているだろう?」

 矢のようにすばやく――とはいかなかったものの、かなではニアの手から写真を取り上げようとした。

 残念、相手の方が何枚もうわてだった。

かなでが手を伸ばした時には、ニアはふわりと身を翻して、2メートルも後ろに移動していた。

「そんなに焦らずとも、これは君の分だ。欲しいならもっと焼いてあげるよ」

「そういうことじゃなくて!勝手に人の写真撮らないでって、何度も言ってるのにっ……!」

 かなではあきらめずに写真を奪おうとした。

 ニアは猫のように敏捷に身をかわす。2人の少女は、妖精像の周りで、くるくると追いかけっこを続けた。

 妖精像に人格があったら、「おまえら、何をやっているのだ……」とあきれていたかもしれない。

 ついに息が切れ、かなでは動きを止めた。肩で息をしながら、ニアの顔をにらむ。

するとニアは、写真をポケットにしまい、代わりに愛用のデジカメを取り出して見せた。

「ちなみに、写真のデータはここに入っている」

 今度はデジカメを奪おうとしたかなでだが、すばやく引っ込められてしまった。ニアはにんまりと意地悪く笑って、

「君は見た目によらず悪女だな。先日、至誠館の部長と恋を語らっていたかと思えば……」

「……っ!語らってない!相談に乗ってもらったお礼に、横浜を案内しただけで……っ!」

 あの時も、ニアは人の許可なく写真を撮っていたのだ。それを見て、至誠館の部長、八木沢も大いに困惑の表情を浮かべていたものだ。しかしニアは反省の色もなく、

「その前は、確か如月兄ともデートしていたな。あれを見て、てっきり君の本命はあの男なんだろうと私は思ったものだが」

「デートじゃないっ!」

とかなでは叫んだ。

 正確には、デートだと思っていたのはかなでだけで、実際はただ必要な楽譜を買いに行くだけだったのだ。今、思い出しても、顔から火が出るような勘違い。

「とどめが東金千秋か。君は実にいい友人だ。休む間もなくスクープのネタを提供してくれる。今度の記事の見出しは、そうだな……『男心を惑わす星奏の悪女(ファムファタル)。ファイナル優勝も目前か?』というのでどうだ?」

 かなでは無言でデジカメを奪い取った。

いや、違う。ニアの方が特に抵抗もせず、デジカメを手放したのだ。

奪い取ったはいいものの……どうしよう。いや、写真を消去すればいいのだとわかってはいるが、

「消すのかい?」

 ニアはかなでの迷いを見抜いたように言った。

「その写真、我ながらよく撮れていると思うが。君が嫌だというなら仕方がないな」

 そうだ、消さないと。東金に迷惑がかかる。

 かなではデジカメのスイッチを入れた。

すぐに先程の写真が出てきた。夜の元町通りで向かい合う、かなでと東金の姿。

写真の中の東金は、小さく笑みを浮かべてかなでを見下ろしていた。その笑顔は、何だかいつもより優しいようにも見えて――かなでは胸が切なくなった。

 消さ、ないと……。

「そんな泣きそうな顔をしなさんな。記事にすると言ったのは冗談だよ」

 ニアが笑い出した。

さっきまでの意地悪な笑い方とは、少し違う。気さくで、親しみのこもった笑みだ。

「時間もない。冗談はこのくらいにして、早速本題に入ろうか」

 さんざん人をからかっておいて、今更早速でもないと思う。

まあ、スクープだ何だと言いつつ、ニアがかなでのプライバシーを本当に記事にしたことなどないのだけれど。

「それで東金とは、その後どうなっている?」

 その後も何も、あれから1日しかたっていない。

「どうもなってないよ」

 かなでは疲れた声で言った。

「だろうな。昼に東金を見かけたが、あいかわらずヴァイオリンを弾いていた」

 ソロファイナルまであと何日もないんだから、当たり前である。なのにニアは、

「目の前の恋より音楽とは、君らは相当変わっているな」

なんて、馬鹿げたことを言っている。

「まあ、ある意味お似合いと言えるかもしれないが」

「……いいかげんにしないと、本気で怒るよ」

 かなでは精一杯、怖い顔をして、ニアをにらみつけた。

 もちろん、この忌々しい友人には通じない。不敵に胸を張り、

「そんなことを言っていいのか?君が喜ぶに違いないニュースを持ってきてやったというのに」

 今更そんな言葉を信じるほど、かなではお人よしではない。

 しかし意外というか、ニアの「ニュース」は本当にかなでを喜ばせるものだった。

「東金のヴァイオリンだが、きのう聞いた時よりずっとよくなっていたぞ」

 かなでの心臓が弾んだ。思わずニアにつめより、

「それ、本当!?

と叫ぶ。

「本当だとも。演奏もそうだし、弾いている東金自身が吹っ切れたようないい顔をしていた。何かつかめたのかもしれないな。あるいは、君との温泉デートがいい息抜きになったか――」

 かなでは何もしていないし、昨夜の外出は断じてデートなどではない。

 だけどそんなことはどうでもよくなるくらい、かなでは嬉しかった。

 ニアは見た目によらず音楽への造詣が深く、聞く耳も確かだ。そのニアが言うのだから、信じていいはずだ。

(よかった……)

 胸の奥から温かい気持ちがあふれて、胸いっぱいに満たされていく。

 そんなかなでを見て、ニアはもともと大きな瞳をさらに見開いた。

「なんとけなげな。今の君は、まさに恋する乙女の見本のようだな」

 さりげなくデジカメを取り戻し、かちりとボタンを操作する。

「これを見ろ、小日向」

 言われて顔を上げたかなでは、目を見張った。

 それは、東金の背中を見送るかなでの写真だったのだ。

瞳は熱を帯び、頬は赤らんでいて――まるっきり、ニアがいうところの「恋する乙女の見本」のような姿である。

 他人なら、ほほえましい。だが、それが自分とあっては、死ぬほど恥ずかしい。

一転、青ざめるかなでに、ニアは判決を言い渡す判事のように告げた。

「まあ、君がいくら否定したところで証拠はそろっている。いいかげん、腹をくくってはどうだ?私の見る限り、君の恋は本物だ」

「…………」

 かなではあっけにとられてニアの顔を見返した。

 この気持ちが、本物の恋?

 私は、あの人のことが――。

(好き……?)

 声には出さずにつぶやいた言葉が、胸の内にぴったりはまる。

 頭が沸騰したように熱くなった。まるで羽が生えたみたいに足元がふわふわする。今すぐ走って逃げたいくらい恥ずかしいのに、心の奥が変に温かい。

「ようやくわかったようだな」

 そんなかなでを見て、ニアは満足げにほほえんだ。

「言っておくが、(ほう)けている暇はないぞ?この短い夏が終わる前に、君の恋をかなえる算段をしようじゃないか」

 かなでは再びあっけにとられた。

 恋を、かなえる?いったいどうやって?

 たとえ――たとえ、かなでが東金のことを本気で好きだったとしても、だ。

 東金にとってのかなでは、ただの地味子でしかない。

 セミファイナルでは見直してくれたかもしれないけど、それはあくまで演奏についてのこと。何より、あと半月もしないうちに、神戸に帰ってしまう人だ。

 心が瞬時に冷たくなった。まさにお花畑から奈落に突き落とされるかのごとく。

「どうした、急にわかりやすく落ち込んだりして」

 うなだれたかなでの耳に、ニアの不思議そうな声がする。

「さては、見込みがないと決めつけているのか?」

 どうやらこちらの考えていることは、口に出さなくても全てお見通しらしい。

「君は意外にネガティブなところがあるな。あるいは女としての自信が足りていないのか……」

 ニアはそんな風に言うけど、別にかなで以外の女の子でも、相手が東金では、自信なんて持てないと思う。

 完璧な容姿とか、家がものすごいお金持ちだとか、そういうことだけじゃない。

 常に自信に満ちていて、華やかで、人の目を惹かずにはいられない人。

 そのくせ変に優しくて、まっすぐで、熱い情熱を秘めた人。

 東金は特別な人だ。どう考えたって、自分みたいな地味子とは釣り合わない――。

 目の奥が熱くなった。

 考える間もなく、一粒の雫がかなでの頬をつたった。

(あれ……?)

 何、これ。

 ニアが驚いた顔をしている。当然だろう。何より、かなで自身が驚いていた。泣くつもりなんて全然なかったのに。

(どうしたの、私……)

 かなでは目尻をぬぐった。

 だけど、ぬぐうそばから涙があふれて、こぼれて、止まらない。

 まるで、初めて東金の演奏を聞いた日みたいに――。



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