この夏が過ぎたら(3)

 

結局、その日の練習は、下校時刻ギリギリまで続いた。

昼食や休憩を挟みながらとはいえ、朝からずっとである。楽譜やヴァイオリンを片付けながら、さすがにかなでも疲れを感じていた。

「まじ、だりぃ……。ファイナルまでずっとこれかよ……」

響也が机に突っ伏する。

幼なじみの背中を眺めながら、このところずっとがんばってたからな……とかなでは思った。

以前の響也は練習もサボリがちで、お世辞にも真面目に部活に取り組んでいるとは言えなかった。

しかし、コンクールを通してさまざまな人と出会い、経験を積む中で、響也なりに思うところがあったのだろう。

最近では練習もちゃんとするし、他人の意見もよく聞くようになっている。

 いつもなら「情けないことを言わないでください」と怒るハルも、かなでと似たようなことを感じていたのかもしれない。

「お疲れさまです、響也先輩」

 珍しく優しい言葉をかけた後で、

「そうだ。うちの近くに、ちょっとした温浴施設があるんですよ。よかったら行ってみませんか?」

「温浴施設?……って何だ?」

 響也が顔を上げる。

「もとは普通の銭湯だったんですけど、最近、大規模な改装をしたんです。軽いマッサージなんかのサービスもあるんですよ。僕、割引券を持っているので、よかったらご案内しますよ」

「へえ……」

 響也は少しだけ興味を引かれたような顔をしたが、結局はまた机に突っ伏してしまった。

「……確かに、少しは休まねえとやってらんねえよな。銭湯なんて安っぽいのじゃなくて、いっそ温泉でも行きたい気分だぜ」

 横で聞いていたかなでは楽譜を取り落としそうになった。

「安っぽくて悪かったですね。温泉なんて、そんな贅沢ができるわけないでしょう」

 ハルの不機嫌そうな声に、冷や汗が頬をつたう。

 仲間たちに内緒で、東金たちに温泉に連れていってもらったのはついきのうのこと。

成り行きでそうなったとはいえ、何だかものすごく後ろめたい。

「どうした、かなで?なんか顔色悪いぞ?」

 響也が不思議そうな顔をする。

「べ、別に!」

 かなでは慌てて楽譜をカバンに押し込み、部室から出て行こうとした。

「な、なんだ。なに慌ててんだよ」

「急にどうしたんですか、小日向先輩」

 驚く2人。その声に、部室の隅で話していた律と大地までが何事かと振り向く。

かなではいっそう慌てた。

「なんでもないよ!ただ、ニアとの待ち合わせに遅れると思って……」

「ああ、なんだ。そんなことかよ」

 響也は不愉快そうに顔をしかめた。

「別に待たせときゃいいだろ。ふざけたことばっか言って、用件も教えねえんだから」

「小日向先輩、くれぐれもお気をつけて」

 ハルは真剣そのものだ。多分、心配して言ってくれているんだろうけど、この場合、何をどう気をつけたらいいのか。

「小日向、遅くなるようなら、ちゃんと寮母さんに連絡を入れろよ」

 保護者みたいなセリフを口にしたのは律。

「それは、多分……だいじょうぶだと思う。そんなに遅くなるような用事じゃないと思うし」

 ニアは「渡したいものがある」と言っていただけ。他に用事がある風でもなかったし、仮にどこか寄り道したとしても、寮の門限に間に合わなくなるほどではないだろう。

「そうか。それならいいんだが」

 律は軽くうなずいて、「ああ、そうだ……」と何か思い出したような顔をした。

「今、やっている曲についてだが」

 カバンの中から1冊の本を取り出し、

「これを。おまえに見せようと思っていた」

「何の本?」

かなでは律の手元をのぞきこんだ。

 かなり分厚い本だ。随分読み応えのありそうな……かつ、難しそうな。

 書名は『作曲家、その生涯』。サブタイトルに『イギリスの作曲家たち』と入っている。

「おまえがエルガーに興味を持っているようだったからな。この本が参考になるのではと思った」

 律が本のページをめくる。

 カラーの見開きに、気難しそうな英国紳士の肖像があった。その下に、『サー・エドワード・エルガー』と英語で書かれている。

 エルガーとは、ファイナルでかなでたちが演奏する『威風堂々』の作曲者。そういえば、その曲にすると決めた時、「エルガーってどんな人だっけ?」と律に聞いた記憶がある。

興味があったというより、単にその作曲家のことをよく知らなかったゆえの質問である。

かなでは基本、ヴァイオリンを弾く、以外のことは苦手だ。

ついこの前まで田舎の普通高校に通っていたせいでもあるのだけれど、楽典や音楽史も苦手、作曲家のことも詳しくない。

その点、律はすごい。楽器のこと、作曲家のこと、その曲が生まれた時代背景等、尋ねれば何時間でも語ってくれる。

「ありがとう」

かなでは本を受け取り、カバンにしまった。

 練習でくたくたに疲れた後で、分厚い本を読むのは、正直、気が進まない。

とはいえ、せっかくの律の厚意だ。それに楽曲を深く理解するためには、作曲者のことも知る必要がある。

「信じらんねえ……よくそんな元気あるよな……」

 ぼやく響也に、

「いつまでもだらけているな。疲れているのはおまえだけじゃない」

と説教を始める律。

 その様子を見ていた大地が、腕時計にちらりと目をやった。

「律、そろそろ行こう。別に急ぐわけじゃないが、途中で本屋に寄りたいとか言ってたろ?」

「ああ、そうだな。悪い」

 2人の会話を聞いて、響也が意外そうな顔をした。

「なんだ、あんたら。これからどっか行くのか?」

 律と大地は帰る方向が違う。学校帰りに一緒に本屋に行く、というならわかるが、大地は「途中で」と言った。つまり目的地は別にある、という意味だ。 

「ああ、大地の家に行く」

「なんだよ、あらたまって」

 その質問には、大地が答えた。

「別に、あらたまってというわけじゃない。ただ夕飯を食べていってもらうだけだよ。律はうちの家族に人気だから、しばらく姿が見えないと連れて来いってうるさいんだ」

 ふうん、と響也はつぶやいて、それきりその話には興味をなくしたようだった。

 かなでも、いつまでもここで時間を食っているわけにはいかないので、ニアとの待ち合わせ場所に急ぐことにした。

 ただ、少しだけひっかかった。

 律が大地の家に行くのは、本当に、ただ夕飯を食べに行くだけなんだろうか?




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