この夏が過ぎたら(1)

 

――2011818日。全国学生音楽コンクール決勝(ファイナル)まで、あと日。

ファイナルに出場する星奏学院では、今日もコンクールのメンバー5人が朝から練習である。

「よし。一旦、休憩」

 律がヴァイオリンの構えを解く。張りつめた部室の空気が緩む。

10分後に再び合わせる。それまで各自、楽譜をさらっておくように」

 椅子に座って休もうとしていたかなでは、慌てて立ち上がり、楽譜のページをめくった。どうやら気を抜いている暇は、一瞬もないらしい。

「なんっだよ、それ……どこが休憩だっての……」

 響也が肩を落とした。

 律の弟。音楽科2年。ヴァイオリン担当。

かなでとは家が近所で、幼い頃から兄弟同然に育ってきた。手のかかる弟のようでもあり、意外に頼りがいもある兄、といったところか。

 身長はそれなり、顔立ちも整っている。そのため、ヴァイオリンを弾く姿――特に激しくて速い曲を弾かせると非常にさまになる。響也くんてかっこいいよね……と言う女子も、かなでの周りには少なくない。

「響也、文句を言うな。ファイナルまで、もう日がない。俺たちにできるのは、与えられた時間の中で最大限の努力をすること――それしかないんだ」

 ぼやく弟に、律が厳しい視線を向ける。

 1つ違いの兄弟だというのに、2人は全く似ていない。

 律は知的で、クールな感じ。かっこいいというより、とてもキレイな顔立ちをしている。

 ただ、あまりにキレイすぎて、ちょっと高嶺の花という感じがするのかもしれない。

 見た目だけでなく、その演奏も。何しろ1年生の時に、全国コンクールのソロ部門で優勝を飾ったくらいだ。

 色々と完璧過ぎて、近寄りがたいと思っている人間はオケ部でも少なくないようだ。

 本当の律はとても優しくて、不器用なくらい誠実な人なのだけど。

 兄の叱責に、わかったわかった、と投げやりに手を振る響也。

「わかったから、ちょっとだけ休ませろって」

 そう言って、部室から出て行こうとする。途端に、

「どこへ行くつもりですか、響也先輩!」

と、ハルの鋭い声が飛んだ。

 本名・水嶋悠人(はると)。音楽科1年。チェロ担当。

 小柄な体や、可憐な少女のような顔立ちとは裏腹に、中身は人一倍、男の子である。

 生真面目で責任感が強く、また、他人にもそれを求めるところがある。

 オケ部で1、2を争う練習の虫で、とにかく暇さえあればチェロを弾いている。律のスパルタ指導に1度も音を上げなかったのは、多分、メンバーの中でハルだけだろう。

「飲み物買いに行くだけだ、馬鹿。今更逃げるとでも思ってんのかよ」

 響也はいかにも面倒くさそうに言った。

「そうじゃありません!ただ、部長が楽譜をさらっておくよう指示されたのに……」

「まあまあ、ハル。少し席を外すくらいはいいじゃないか」

 放っておくとけんかを始めそうな2人の間に割って入ったのは、副部長の(さかき)大地だった。

 普通科3年。ヴィオラ担当。

 180を超す長身で、栗色がかった髪に、優しそうな瞳の二枚目である。

 見た目通り、というとやや語弊があるが、女の子に対しては、優しいを通り越して甘い。

 ナンパ?と勘違いしたくなるようなセリフを日常的に使い、それでいて女子に警戒されることも少ない。むしろ、大地の場合はそれが普通だと周囲にも認識されているようだ。

スマートな物腰に、なめらかなトーク。女性関係では玄人じみた雰囲気さえ感じさせる。そんな大地が、銀座の一流店でbPホストに輝く姿を、かなでは夢想したことがある。

 ……と、音楽に関係ない話ばかりしたが、普通科の大地がオケ部の副部長を務め、しかも全国大会のメンバーに選ばれるというのは大変なことである。

 まして、大地は高校に入ってからヴィオラを始めたらしいのだ。

 全国大会のメンバーに選ばれるということは、部で1番ヴィオラがうまいと認められたようなもの。

 忙しい学業の傍ら、それだけの技術を身につけるなんて、並大抵の努力では成し得なかったはずだ。

 かなでも、今では知っている。

 大地が本気で全国優勝を目指していること。その情熱は本物であること。

 星奏に進学してからずっと、律と同じ夢を見てきたこと……。

「なあ、律?かれこれ2時間以上練習してるんだ。いくら空調が効いてるからって、水分補給をしないと熱中症になるだろう」

 大地の言葉に、律は少し考えてからうなずいた。

「そうだな……。先程の指示を変更する。20分休憩。各自、水分補給をしてから、楽譜をさらっておくように」

 響也がわざとらしく嘆息した。

「……大して変わってねえし。てか、話してる間に5分くらい経ってるんじゃねえ?」

 弟の皮肉は、真面目過ぎる兄には通じなかった。

「そうだな。今から15分後に、音を合わせることにしよう」

「げ」

「やぶ蛇だな、響也」

 大地がからかうように笑う。一方、ハルは部長の指示に椅子から立ち上がり、

「それなら、僕も何か飲み物を買ってきます。今日は、家から持ってくるのを忘れたので」

 部室を出て行こうとして、途中で響也の方を振り向く。

「行かないんですか、響也先輩」

「……行くよ。行きますよ……」

 ぶつぶつ文句を言いながら、響也がハルと一緒に出て行く。かなでがその姿を見送っていると、

「ひなちゃんは行かなくていいのかい?」

と、大地が聞いてきた。

 ひなちゃん、とは小日向の「ひな」である、念の為。

「私は、寮から持ってきたので……」

 かなでは、カバンから水筒を取り出した。

「中身は何?」

「アイスミントティーです。ミントの香りがすっきりして、元気が出るので」

「へえ、いかにも夏向き、って感じだね」

 大地が感心したような顔をする。

「でも、響也はこれ、苦手なんですよ。ハッカ臭いとか言って」

「はは。あいつはあいかわらずお子様だなあ」

 ミントが苦手、イコール子供ということもないと思うけど、確かに響也の味覚は、ある意味わかりやすい。

 炭水化物好き、肉料理も好き。要するに、育ち盛りの男子高校生らしい好みをしている。

 かなでは水筒の蓋にアイスミントティーを注ぎ、一口飲んだ。

 冷たくておいしい。喉の渇きと練習の疲れが、同時に癒されていくのがわかる。

 もう一口……と思った時、大地がじっとこちらを見ているのに気づいた。

「大地先輩?」

「ああ、ごめん。よければ、俺にもくれる?」

「え?でも、これ……ハチミツで甘くしてあるんですけど、大丈夫ですか?」

 大地は甘いものが得意でない。しかし、かなでの心配をよそに、既に大地は愛用のマグカップをテーブルの上に持ってきていた。

「疲れには糖分が有効だからね。それに君の淹れたものなら、極端に甘過ぎるってことはないだろうし」

 カップを差し出されて、かなでは水筒の中身を少しだけ注いだ。

「一応、味見してみてください」

「ありがとう。それじゃ一口……」

 大地がカップの中身を煽る。そして満足げに、にっこりした。

「うん、うまい。もっともらえるかな」

 誉められて悪い気がしないかなでは、大地のカップに並々とアイスミントティーを注いだ。

 また一口含んで、今度は真面目な顔をする大地。

「香りがいいな……。もしかしてこれ、水出し?」

 かなではさらに嬉しくなった。

「はい、そうです。その方がおいしいから」

「ひなちゃんが料理上手なのは知ってたけど、こういうのも得意なんだね」

 もう1度、にっこり笑う。

「得意というわけではないですけど、昔から好きなので……」

 紅茶でもコーヒーでも日本茶でも、おいしい飲み物には、人の心をホッとくつろがせる力があると思う。

 特に、最近のかなでは、紅茶に凝っている。

 それは、誰かさんが無類の紅茶党であることと、多分、無関係ではない。

 朝、かなでが菩提樹寮のラウンジに下りると、だいたい東金が居て、経済新聞などを片手に、芹沢の淹れた紅茶を飲んでいる。今ではすっかりお馴染みとなった光景だ。

「そんなにうまいのか?」

 横で話に耳を傾けていた律が、興味を引かれたように聞いてくる。

「あ、律くんも飲む?さっぱりしておいしいよ」

 かなでが水筒を差し出すと、一見クールな横顔に優しげな微笑が浮いた。

「ああ、もらおう」

 律が持ってきたカップに、ミントティーを注ぐ。

 一口含んだ律は、びっくりしたように目を見開いた。

「……っ!これは……随分、香りが強いものなんだな」

「ご、ごめん。もしかして、好きじゃなかった?」

 かなでは慌てた。考えてみれば、ミントの独特な風味は、苦手な人も多い。

「……いや、そんなことはない」

 律は真顔に戻って、もう1度確かめるように、カップの中身を口に入れた。

「こういうのは初めて飲んだが、ミントのガムなんかとはまた違うものなんだな。……口の中がすっきりして……悪くない、と思う」

「本当に?無理しなくていいよ?」

 かなでがおろおろしながら言うと、律は軽くほほえんで見せた。

「大丈夫だ。おまえの作ったものは、どんなものでもうまいよ」

 それって、やっぱり口に合わないって意味なんじゃ……。

だけど、律くん。なんだか、また昔みたいに優しくなったかも。

 星奏に転校してきた時、2年ぶりに再会した律は、どこかよそよそしく見えた。

 というより、もうすっかり高校生になっていて、しかもオケ部の部員たちに「部長」なんて呼ばれていて、自分とは全然、違う世界の人みたいだった。

 かなでがオケ部に入部した後も、他の部員たちに対するのと同様の態度で接した。

 それは当然のことなんだけど、幼い頃から律を知っているかなでは、やはり寂しかった。

 1つ年上の律は、昔からずっとかなでに優しくて、困ったことがあれば助けてくれたし、迷った時には相談に乗ってくれた。

 それに、ヴァイオリンも……。

 かなでが星奏への転校を決めたのは、先に進学していた律の存在があったからである。

学生ヴァイオリニストとしては屈指の実力者で、子供の頃からずっと尊敬していた律のそばに行けば、自分のヴァイオリンも、何かが変わるかもしれないと思って。

 でも、それはただ律に甘えていただけなんじゃないか。

 自分が星奏に来たのは、律にとって迷惑だったんじゃないか……そんな風に悩んだりもしたものだ。

 実際には、律は律なりに、かなでのことを考えてくれていたんだけど。

 その証拠に、かなでが律に頼りきりになるのではなく、自分で目の前の課題に取り組もうとする時、律は必ずそばで見ていてくれた。

厳しい言葉をかける時はあっても、結果を出せばちゃんと評価してくれた。

 最近では、さっきみたいに、子供の頃に戻ったような笑顔を見せてくれることもある。

 かなでがアンサンブルメンバーの1人として、まがりなりにも与えられた責任を果たすことで、少しは見直してくれたのかな、とも思う。

(そうだったらいいんだけど……)

 律に認めてもらえたら、嬉しい。星奏に来た甲斐もあったというものだ。

 ――その時、誰かの携帯が鳴った。

「ん?俺か……」

 律が制服のポケットから携帯を取り出す。

「……はい、如月です。理事長?……はい、今は部室に居ますが……それで、用件は……わかりました、すぐに行きます」

 短い通話の後、律が携帯を切る。

「どうかしたのか?」

と大地。律は軽くうなずいて、

「ああ。理事長室に来てほしいそうだ。用件は、『来ればわかる』と」

 大地は苦笑した。

「あの人らしいな。けど、急にどうしたんだろう」

「わからないが、とにかく行ってくる。多分、そう時間はかからないと思う。ハルと響也が戻ったら、パート練習をしておいてくれ」

 テキパキと指示を出す律に、「了解」とうなずく大地。

 律が出て行った後、かなでは大地と顔を見合わせた。

「理事長って、吉良理事長のことですよね?」

「ああ、もちろん。直接電話してくるなんて珍しいけど……今度のファイナルのことで、何か話でもあるのかな……?」

 星奏学院理事長・吉良(きら)暁彦。

 学院創立者の直系に当たる人物で、今から8年ほど前、30歳そこそこの若さで理事長に就任している。

経営者としてはやり手らしく、当時、経営危機に陥っていた星奏学院を立て直したのは、彼の手腕だという噂だ。

 かなでは何度か挨拶したことがある程度だけど、クールっていうかドライっていうか、ちょっと何を考えているのかわからない感じの人だった。

 8年前30そこそこなら、今は40歳前後のはず。でも、いわゆるおじさんっぽい空気は全然ない。すらっと背が高くて、かっこよくて、女生徒の中には、ひそかなファンも居るくらいだ。

「案外、祝勝会の相談だったりしてね。会場の手配とか、挨拶とか、決めなきゃならないこともあるだろうし」

 笑いまじりの大地の言葉に、かなでは目を丸くした。

「祝勝会って、さすがに気が早いような……」

「そうでもないさ。全国大会決勝ともなれば、仮に準優勝だって何もしないわけにはいかないだろ?ほら、星奏オケ部はOBの数も多いから、色々大変なんだよ。激励の電話とか、電話だけじゃなく、直接メンバーに会って励ましたいとか、そういう問い合わせも多いらしいし」

 かなではさらに驚いた。そんな話、ちっとも知らなかった。

「全部、理事長が対応してくれてるんだよ。俺たちが演奏だけに集中できるようにって。一見、無関心そうだけど、実は頼りになるんだ、あの人は」

そうだったんだ。何を考えているのかわからないなんて、失礼なこと思って悪かったな……とかなでは反省した。

それにしても、と大地がつぶやく。

「あいつら、遅いな。いったいどこまで飲み物を買いに行ったんだ?」

 言われてみれば、ハルと響也が帰ってこない。冷たい飲み物なんて、すぐそこの自販機で買えるのに。

「もしかしてカフェテリアまで行ったのかも……響也、あそこのジンジャーエールがお気に入りだから」

「それにしたって、もう帰ってきてもいい頃だろ?」

 大地が携帯を取り出し、操作する。

「……もしもし。響也、今どこだ?……は?調理部の部室?何やってるんだ、おまえら……。いや、律は居ないよ。理事長に呼び出されて……ちょうどいいっておまえ……わかった。何だか知らないが、早く戻れよ」

 ため息をついて、大地が携帯を切る。

 調理部の部室?とかなでが疑問符を浮かべていると、

「よくわからないけど、カフェテリアに行く途中で、ハルのクラスメートに捕まったらしい。……もしかすると、何か食べさせてもらってるのかもしれないな。電話の向こうで、女の子たちがやけにはしゃいでたから」

「はあ……」

かなではあきれてしまった。オケ部の部員は女子に人気があるし、そういうことになってもおかしくはないが……今は練習中である。響也はともかく、ハルまで、とは。

「まったくしょうがない奴らだ。ね、ひなちゃん」

 そう言う大地も、よく女の子に差し入れをもらったりしているけど。

「ま、思いがけず君と2人きりになれたのはラッキーだ」

 とびきりのホストスマイルを浮かべて、ぱちりとウインク。

 冗談だとわかっていても、大地みたいな人にそんな風にされたら、やっぱりどきっとする。

 かなでは落ち着かない気分で、部室のドアに目をやった。

 みんな、早く帰ってこないかな……。

「最近、調子はどう?何か困ってることとかない?」

「あ、はい。大丈夫です」

 かなでは慌ててうなずいた。

「今、練習している曲は正直まだまだですけど、前より集中できてる感じがするし。ファイナルまでに、できるだけ弾き込んでおきたいって思ってます」

「そうか。頼もしいな」

 大地が笑う。

 かなでは少し驚いた。

 そういえば、以前の自分なら、コンクールのことでこんな前向きな発言はできなかったかも。

 セミファイナルでいい演奏ができたこと――東金に認めてもらえたことが、気づかないうちに自信になっていたのだろうか。

(……今頃、どうしてるかな)

 不敵な微笑が、かなでの脳裏をよぎる。途端に胸の奥がきゅっと締めつけられる感じがして、かなでは無意識に自分の胸を押さえた。

(今日は練習、進んでるかな……)

 温泉でリラックスできたのがよかったのか、今朝、食事の時に見かけた東金は、昨夜よりも元気そうだった。

 だから、練習の方もうまくいっていると信じたいところだけど……本音は、少しだけ心配だった。

「ひなちゃん?どうしたの、ぼんやりして」

大地の声に、かなでは我に返った。

「あ、ごめんなさい。なんでもないです」

「…………」

 大地はホストスマイルを消し、真面目な顔でかなでを見下ろした。

「余計なことかもしれないけど……最近、少し変じゃないか?」

「え?」

「ねえ、ひなちゃん……」

大地が何事かを切り出しかけた時、廊下の向こうから、騒々しい話し声が近付いてきた。どうやら、響也とハルが帰ってきたらしい。

「なんだ、思ったよりも早かったな」

 大地がため息をつく。

「先輩?」

「ごめん、なんでもないんだ。気にしないでくれ」

 そう言って、大地はいつものように笑って見せた。



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