平家の鬼子 二、逢魔(おうま)(とき)(かい) (4)

 

廊下に飛び出した重衡は、そのまま後ろも見ずに駆けた。

知盛が後を追う。広い邸で、しばし兄弟の追いかけっこが続いた。

「来ないでください!」

 重衡は叫んだ。しかし、知盛はどこまでも執拗に追ってくる。重衡も必死で逃げたが、ついには追いつかれ、着物の袖をつかまれてしまった。

「……っ!放してください!」

「どこへ行く気だ」

「どこでも構いません!」

 振り解こうとしてもがく重衡と、さらに押さえつけにかかる知盛。もみ合っているところに、もう1人の兄・宗盛が姿を現した。

「おまえたち、何をしている」

「知盛兄上が――!」

重衡は助けを求めて、宗盛の顔を見上げた。

黒髪に黒い瞳。どちらかといえば母親似の端整な顔立ち。

 しかし、まるで薄曇の空のような、どんよりした表情がそれを台無しにしている。

 最近の宗盛は、いつ見てもこんな顔をしている。

現在18歳。色々と、悩みの多い年頃であった。

「母上が、頭痛がするからと休んでいらっしゃるのだ。静かにせよ」

 いかにも不機嫌そうに言い捨てて、自分の部屋に戻っていってしまう。

『…………』

残された知盛と重衡は、しばし出方を探るように相手の顔を伺った。

やがて、重衡がきびすを返す。

「どこへ行く」

「自分の部屋で、書を読みます」

「本当だろうな?」

「嘘ではありません。兄上はついてこないでくださいませ」

 しかし、知盛はついてきた。

 重衡が文机の前に座って書をひらくと、その後ろに座り込む。見張っているのだ。

「そのようにされたら、落ち着きませぬ」

「文句を言うな」

「私は逃げたりしません。あっちへ行って下さい」

「黙れ、と言っている」

 重衡はため息をついた。

何を言っても、兄は聞いてくれない。

こうなったら根競べだ。

 重衡は座って書を読み続けた。ただ見ているだけの知盛は、退屈するに決まっている。

 案の定、最初は座っていたのが姿勢を崩し、そのうち頬杖を突いて寝転がった。

 一刻(いっとき)(ほど)たち、日が傾く頃には、うとうとし始めた。

(もういいだろうか……?)

 重衡は慎重に背後の様子を伺った。

「兄上……?」

 思い切って呼んでみる。

 返事がない。どうやら眠っているようだ。

(今のうちに――)

 重衡はそっと立ち上がろうとした。

その時、何か柔らかいものが重衡の足に触れた。

足元を見ると、白猫と目が合った。いつのまにか、部屋の中に入ってきたらしい。

「ああ、沙羅。脅かさないで――」

『ニャーオ』

「しーっ!静かにして。兄上が起きてしまう」

 おそるおそる、知盛の方を見る。

頬杖を突いていた腕がのび、だらりと横になっている。

起きる気配はない。とはいえ、油断は禁物。足音を忍ばせ、細心の注意を払って、寝ている兄の横を通り抜ける。

 うまくいった。

部屋を出ようとしたところで、沙羅が追いついてきた。

『ニィ』

重衡の(はかま)(すそ)をくわえる。まるで、出掛けてはいけない、というみたいに。

「沙羅、邪魔をしないで」

『ニャーオ』

「しーっ!しーっ!」

 重衡は必死に訴えた。

「おまえは、兄上の味方なのかい?」

 沙羅は小首を傾げて、重衡を見上げてきた。

 この白猫は、ちょうど兄弟が生まれた頃に、邸にもらわれてきた。

 他の誰かが居る場所では猫の顔をしているが、そうでない時は、たまに人間のような目をすることがある。

 重衡にとっては、姉か妹のような存在だった。

「お願いだよ、見逃しておくれ。ほんの少し、出掛けるだけだから」

『ニィ……』

 わかってくれた。重衡にはそう見えた。

「ありがとう、沙羅」

 廊下に出た重衡は、そのまま庭に下りた。

 出掛けると言っても、邸の門を使うわけにはいかない。1人で出歩くことは禁じられているからだ。

京の町はそれほど安全な場所ではないし、重衡の服装では、いい家の子供であることが一目でわかってしまう。

 外出の際はちゃんと供をつけなければならないし、その前に家族の許しを得ることが必要だ。

 ……本当は。

 実は、たまにこっそり、1人で抜け出している。

いつも大人に囲まれて外出するのはつまらないし、窮屈だ。

そう思っているのは、重衡だけではない。知盛も同じで、やはり家人の目を盗んで、たまに抜け出している。

邸の外にも、いくつか昼寝場所を持っているらしい。あれは昨年の秋だったか、その場所で寝過ごして、邸に戻らなかったことがあった。

家人総出で探し回る騒ぎとなった。夜半過ぎて、何事もなかったような顔で戻ってきた知盛に、時子はただ無事を喜び、清盛は「豪胆な奴よ」と誉めたが、重盛は容赦なく鉄拳を落とした。

重衡は兄ほど人騒がせなことはしていない。

散策したり、買い食いをしたり、まあ何度か危ない目にあったこともないではないが、六波羅の外に出なければ、およそだいじょうぶだということも知った。

広い庭を横切り、重衡は走った。植え込みの下をくぐり抜けると、邸を囲む築地(ついじ)(べい)が目の前に姿を現した。

重衡は塀に近付いた。

見つからないよう木の板で隠してあるが、そこに子供1人がようやく通れるくらいの小さな穴が開いている。

木の板をどけ、そっと穴から顔を出して、外の様子を伺う。人の姿はない。

「よし」

脱出成功だ。あとは兄が追ってきても見つからないよう、隠れるだけ。

 重衡は小路(こうじ)を駆け抜けた。

少しずつ冷たくなり始めた空気が、重衡の頬をなでていく。

 日が沈み、夜が訪れるまでのわずかな時間。それは黄昏(たそがれ)とも、逢魔(おうま)が時とも呼ばれる。あの世との境界が揺らぎ、人ならざる者が現世(うつしよ)彷徨(さまよ)い出すという――。

 大路(おおじ)に差し掛かったところで、重衡は足を止めた。

 ギシ、ギシと、車輪のきしむ音。

 道の先から、1台の牛車がやってくる。

 京の町では、日が暮れた後に出歩く人はまれだ。急な仕事で帰りが遅くなった役人か、あるいは恋人のもとに通っていく貴族だろうか。

 重衡は道の脇に寄って、通り過ぎていく牛車を見上げた。

 変だ。

牛飼い(わらわ)の姿もなく、付き従う(くるま)(ぞい)も居ない。

 4人は楽に乗れる大きさ。(すだれ)を下ろしているから、乗っているのは女性だろう。

「もし」

 声がした。

 ガタンと音を立てて、牛車が止まる。

「そちらにいらっしゃるのは、平重衡殿では……?」

 本能的に、重衡は危険を察知した。

 この場を去るべきだ。今すぐに。

 しかし、両足は動かない。

 簾の奥から、細い手がのぞいている。ゆらゆらと、こちらに手招きしている。どす黒く、異様に爪が長い。

 ――亡者の手だ。

 そう思った瞬間、その手は、信じられない力で、重衡を牛車に引きずり込んだ。

「兄上っ……!」

 とっさに重衡は叫んだ。

 車輪がきしむ。牛車が動き出す。

 後には、闇と沈黙だけが残された。




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