源平・歴史解説


16、開戦、そして決着


 突然、謀反の疑いをかけられた頼長と、おそらくはその罪をかぶせた側であろう帝側。

その戦力差は、戦う前から明白でした。

 

 ただ、崇徳院側には切り札が居ました。河内源氏の棟梁・為義の息子、為朝です。

 別名「鎮西八郎」。八男なので八郎。かつて鎮西(九州)で武名を馳せたためにこう呼ばれます。強弓使いで、並ぶ者のない武者でした。

 この為朝、不利な戦況を覆すため、夜襲を行うよう頼長に献策したとされています。

 が、頼長はこれを受け入れず、自分の領地や京周辺の寺社から援軍が来るのを待つことにしました。

 

 ……ヘタレだ。

 と、思ってしまいそうですが、そもそも当時の都の貴族に、どれくらい戦の心得があったかって話ですよ。

 武士たちにしても、多分、そんなに積極的に戦いたかったわけではない気がします。正確には、手柄は欲しいけど、死にたくはなかっただろうと。

 当時の武士と主君は、ギブアンドテイクの契約関係です。少なくとも、我が身を省みずに尽くしたい、というようなものではありません。

 

 戦いは始まったものの、とりあえずは鴨川を挟んで、一進一退の攻防が続きます。

 数的には圧倒的に有利だった後白河帝側ですが、鎮西八郎の強弓によって、死傷者も出ます。

 更なる犠牲を覚悟で特攻をかけるわけにもいかない(というか、やりたくない)ので、帝側は一旦、兵を引き、結局は夜襲と火攻めで、戦いを決着させました。

藤原頼長は流れ矢に当たって重傷を負い、父の忠実のもとに逃げます。しかし、面会を拒まれ、失意のまま死亡。

忠実としては、「自分は謀反とは無関係」と示すために、仕方のないことだったんでしょうけど……頼長が気の毒過ぎますね。「遙か」だったら確実に怨霊になってるところです。

 

摂関家の苦境は、これでは終わりません。

仮にも当主が、謀反人として殺されたのです。謀反人の財産は、国家に取り上げられてしまうこともありえます。

摂関家の資産は莫大なものですし、全国津々浦々に土地を持っています。もしもこれが「没収」なんてことになったら、影響は都だけに留まりません。

結局は、後白河帝側だった兄の忠通があらためて摂関家を継ぐことで決着するんですけど、忠通は朝廷や帝に借りを作った形となり、その権力は大きく減退することになりました。

 

この保元の乱は、「乱世の始まり」とも呼ばれています。

確かに、王権内部の争いが、武力によって(問答無用で)決着したこの戦いが、のちの歴史に与えた影響は小さくなかったでしょう。

その戦いの主役は当然、武士たちである、ように見えます。

しかし、一連の流れからわかるように、この戦いで最も痛手を受けたのは、実は摂関家です。

近衛帝の死、呪詛と謀反の噂、頼長の挙兵と敗死。

これら全てが、摂関家の力をそぐための陰謀、のように見えなくもありません。

 

その黒幕は、果たして誰だったのか。

鳥羽院はもう亡くなっていて、後白河帝はかつぎ出されたばかりで、その息子はまだ子供。

美福門院が1番怪しいかな?と思うけど、真相は歴史の闇の中。

ただ――黒幕かどうかは別として、帝側の参謀とされている人物が1人、わかっています。

 後白河帝の乳父(めのと)、「信西入道」です。


17、後白河帝の参謀


 摂関政治というものが、天皇の母方の外戚(イコール摂関家)によって主導されるものだということは、何度も書いた通りです。

 では、院政時代に力を握ったのは誰か、というと。

院と親しい貴族や、院に寵愛された女性とその一族など、要するに、院と個人的な関係で結ばれた人たちでした。

 

 もう1つ、院政時代に力を発揮したのが「乳母」です。

 母親に代わって乳をあげたり、世話をしたりする人、というだけの意味ではありません。

 当時、身分の高い貴族の家では、子供を親が育てるのではなく、信頼できる養い親に養育させる……という慣習があったらしく、こうした養い親が「乳母」と呼ばれ、その夫が「乳父」と呼ばれます。ちなみに、読みはどっちも「めのと」です。

 子供は乳母の家で、その家の子供らと共に育てられます。当然、実の親兄弟より親しみや情がわくでしょう。

 「乳兄弟の絆」は「平家物語」でもたびたび登場します。血よりも濃い絆で結ばれた兄弟です。

 

 後白河帝の「乳父」だった信西入道は、優れた学者であり、政治家でした。しかし官位は低く、普通に考えれば出世は難しかったのです。

 そこで彼は後白河帝の即位を画策した、とされています。

 自分が養育した皇子が帝位に就けば、後見役として力を発揮できるからです。

 そんな彼が、政敵である摂関家の追い落としを企んだとしたら……頼長の呪詛に関する噂も、ひょっとしたら……と、想像がふくらむところです。

 

 信西入道は、保元の乱の戦後処理でも、中心的な役割を果たします。

崇徳院やその側近は流罪。

 武士たちの処分は「斬首」。要するに、死刑です。

 それまで、日本では300年くらい、死刑というものが公的には行われていませんでした。

 これを復活させることには、当然、異論も出ます。

 そもそも、崇徳院側が本当に国家転覆なんて企んでたわけじゃないってことは、みんな薄々わかってたでしょうし、そんなに厳しくしなくても……という空気はあったはず。

 父とは対立していた義朝も、さすがに一族の助命を願い出たといいます。

 他にも、「崇徳院側の貴族」と親戚関係にある人とかが、罪を軽くするよう、働きかけたでしょう。

 

 が、信西は、「コネや身分は関係ない。あくまで法に則って処分を下す」として、敗者の側には厳罰を課します。

しかも、武士たちの処刑は、武士たち自身の手に負わされました。

すなわち、義朝は父と弟たちを、清盛は叔父と従兄弟たちを斬らねばならなくなったのです(「鎮西八郎」だけは、「武を惜しまれて」流罪になりました)。

 

……これってひどくないですかね。

勝利に貢献した武士たちへの恩賞が、身内殺しですか?

これでは、武士たちは戦いの主役どころか、いいように利用されただけではないでしょうか。

戦いを命じた側が流罪になってるのに、命じられた側が死刑なんて。いくら時代が違えど、ここまではっきり差をつけられて、全く何も感じなかったとは思えません。人として。

 今に見てろよこの野郎、と武士たちが思ったかどうかはわかりませんが……、3年後、再び都で武力衝突が起きます。「平治の乱」です。


18、平治の乱


 保元の乱の2年後、後白河帝はかねてからの予定通り、息子の守仁親王に譲位します。

 二条帝の即位です。以後、後白河帝は院または上皇と呼ばれます。

 

 前述の通り、「保元の乱」によって摂関家はその権力を減退させ、代わりに信西入道と彼の一族が台頭します。

しかし、信西一族の急速な出世は、同じ院に仕える貴族たちの反感を買いました。武士たちへの重たい処分でもわかるように、いささか強引な面もあったようですしね。

 

こうした反・信西派の貴族に、藤原信頼という人が居ました。『平治物語』という軍記物語の中では、「コネで出世しただけの無能」と思いっきり酷評されています。

ただ、現実の信頼は、なかなか抜け目のないところも見せていまして。

 例えば、彼は、「奥州」と呼ばれる地域と深いつながりがありました。

 信頼の弟の1人は奥州に住みつき、その娘は藤原秀衡の妻となりました。

 「遙か3」ファンにはお馴染み、歴史ファンも当然その名を知っている「藤原泰衡」。その祖父の兄に当たるのが、この信頼です。

 

 また、奥州は軍馬の産地です。当時の武士たちにとっては、非常に重要度の高い場所です。

 信頼は、この奥州を押さえることで、河内源氏の義朝への影響力を強め、さらに伊勢平氏の清盛の娘と、自分の息子を結婚させたりもしています。

 

 説明が長くなりましたが、要は、単なる無能というわけではない人。

 ……しかし、彼が政敵である信西入道を倒すために使った手段は、政治ではなく、暴力でした。

 彼は河内源氏の源義朝と手を組み、あろうことか帝と院を幽閉し、信西の邸を襲撃しました。

一旦は逃げ出した信西ですが、結局は逃げ場を失い、自害に追い込まれます。

 

 これって、完全な武力クーデターですよねえ。どっから見ても、「自分は正しかった」って弁解する余地がありません。

 

 信頼がこんな暴挙に走った理由は何だったのでしょうか。

 義朝にしても同様です。彼は保元の乱後の恩賞で、破格とも言える出世を果たしています。もともと水をあけられていた清盛には及ばなかったにしても、別に信西を恨む理由にはなりません。

 ……例の「身内殺し」の件を恨みに思っていた可能性ならありますが、義朝の場合は今更というか……少なくとも、それだけが動機ではない気がします。

 

 3年前に起きた「保元の乱」……一方の側が、政敵を武力で排除してしまった事件を目撃、あるいは経験したことが、彼らを変えてしまったのでしょうか。

 今度もうまくいくだろうと、高をくくっていたのでしょうか。

 

 このクーデターは、清盛始め伊勢平氏一門が、熊野詣に出かけた隙をついて決行されました。

 事件の一報を受けた清盛は、ただちに京に引き返し、協力するフリをしてうまく信頼らを油断させ、帝と院を奪回します。

 

 こうなっては、信頼らはただの謀反人です。

義朝は決死の抵抗を見せますが、圧倒的な戦力差の前に完敗。逃げる途中、部下の裏切りで屈辱的な最期を遂げます。

その息子たちも捕らえられ、長男・義平は処刑。次男・朝長は戦闘中のケガがもとで亡くなり、三男・頼朝とその同母弟は流罪。側室・常磐の子供たちは寺に入れられました。

武士の名門・河内源氏は、一族離散の憂き目を見ることになったのです。

 

逆に伊勢平氏は、軍事貴族として、揺るぎない地位を築きます。

乱の翌年には、清盛はついに公卿の位にのぼり、伊勢平氏は「平家」と呼ばれるに到りました。

清盛にしてみれば、乱を起こしてくれてありがとう、ってなもんでしょう。

……ここまで平家が得をすると、実は黒幕だったんじゃないかって気もしてきますが……。

クーデターを起こすように影でそそのかしたとか……ありそうな感じ。真相はわかりませんけど。

 

ちなみに乱の首謀者である信頼は、捕らえられて斬首となりました。

貴族の処刑は、当時、珍しいです。よっぽど戦勝者側の誰かの恨みを買ったのかな……という感じです。これもやっぱり、真相は闇ですが。


19、父と息子の対立・再び


 息子に譲位して上皇となった後白河院は、父の鳥羽院と同じく、院政を敷きます。

 もともとは息子に位を譲るためだけの中継ぎの帝だったはずなのに、政治の実権を、簡単には手放しませんでした。

二条帝は父親と違って(笑)、聡明な人物だったと言われています。ただ、年も若く、トップに立つには色々と不安要素もありました。

 結果として、二条派と後白河派の対立が起き、京の政界は不安定な状態が続きます。

 

そんな中で、平家はさらに存在感を強めていきました。

 その軍事力の有用性は実証済ですし、ライバルだった河内源氏は既に京には居ません。二条派も後白河派も、平家の力がほしいわけです。

 清盛は、両者の間でうまくバランスを取りつつ、立ち回っていました。

 

 清盛の妻・時子が二条帝の乳母をやっていた関係もあって、どちらかというと二条寄りだったみたいなんですけどね。

 ただ、平治の乱の一年後、二条帝の後ろ盾である美福門院が亡くなります。

 そして二条帝自身も、長くは生きられませんでした。

 1165年、わずか1歳の息子・六条帝に譲位し、世を去ります。数え23歳の早過ぎる死でした。


20、伊勢平氏・絶頂


 二条帝の死によって、後白河院と平家一門の蜜月時代が到来します。

 互いに仲良く手を取り合って、権力の道をまっしぐら。

 と言っても、清盛と後白河院については、あまり仲が良かったようには見えませんが……(笑)。

 

 そんな2人を結びつけたのは、1人の女性の存在です。

 建春門院滋子。

 清盛の妻・時子の異母妹です。要するに、平家の関係者。

 

彼女は後白河院の姉・上西門院に仕えていました。

多分、その時に後白河院の目に止まったのでしょうね。2人の間には、皇子も生まれます。

その子が帝になれば、平家一門にも少なからぬ利があります。二条帝の死によって、これが実現の運びとなりました。

 

 1年後、滋子の息子が皇太子に立てられ、この頃、清盛は内大臣という位についています。翌年には太政大臣になりました。これは名誉職のようなものですが、出世するだけ出世した、と言っていいと思います。

 平家一門の人々も順調に出世していき、まさに我が世の春という感じ。

 

 さらに翌年、六条帝が譲位。

 滋子の息子が皇位につきます。高倉帝です。

 この高倉帝に清盛の娘である徳子が入内。2人の結婚も、滋子の後押しがあったからこそ、実現したと言われています。

 

 女性関係がにぎやかだった後白河院ですが、滋子だけは「特別な女性」だったようです。

 2人そろって福原に出掛けたり、湯治に行ったり。

 息子を帝位につけたのも、皇太后という高い位を滋子に与えたのも、彼女のことを特別に思えばこそだったのではないでしょうか。

 その証拠に、35歳という若さで滋子が亡くなってしまうと、平家と院の関係は一気に悪化しました。


21、蜜月の終わり


 正確に言うと、平家一門の出世が、後白河院の近臣――院を取り巻く貴族らの地位を脅かす勢いになってきたことで、両者の間に緊張関係が生まれていたのでしょう。

 緩衝材である滋子の存在がなくなったことで、それが表面化した、と。

 

 また、院と平家の対立には、寺社勢力も絡んでいます。

 お寺や神社。そこに属する僧兵や僧侶、大衆と呼ばれる人たち。

 貴族とも武士とも立場が違う、しかしそれらと深い関わりを持つ、第三勢力です。

 

 彼らは神仏の権威を背景として、時の為政者にも、恐れず物申すことがありました。

 「遙か3」に出てきた延暦寺(比叡山)はその代表です。

 広大な境内は、朝廷の権力からも独立しており、一種の学園都市のような発展を遂げていたと言います。

 

 僧兵の武力は無視できないものでしたし、何より、当時は「神罰」とか「仏罰」とか、目に見えない人智を超えた力、みたいなものが、けっこう意味を持っていたようで。

 清盛にしろ、その父・忠盛さんにしろ、時の権力者の味方をしつつ、寺社勢力を敵に回さないよう、苦心してきました。

 

 しかし、後白河院は、この寺社勢力と揉めた挙句、平家一門に対し、比叡山攻撃という無茶な命令を出します。

 院の命令をつっぱねるわけにはいきません。といって、比叡山の恨みを買いたくもない。

 清盛始め、平家一門は頭を悩ませたに違いありません。

 

 で、結局。

 この命令が実行に移されることはありませんでした。

 それどころではない事件が起きたからです。

 「鹿ケ谷の謀議」。

院とその近臣たちが、平家転覆の陰謀を企てた……と、されている事件です。


22、鹿ケ谷の謀議は事実か否か


 ある夜のこと。

 鹿ケ谷の山荘に後白河院と近臣たちが集まり、酒宴を催しました。

 そこで、躍進めざましい……目障りな成り上がりの平家一門を打倒する計画が話し合われます。

 この一件は密告によって明らかとなり、清盛は怒りもあらわに、酒宴の参加者を処分します。

 

 ……というのが事件の顛末で、詳しくは「平家物語」を参照のこと。

 問題は、この謀議が果たして事実か否か。

 前項で説明した「比叡山攻撃命令」を吹っ飛ばすための、言葉は悪いですが、「でっちあげ」説もあります。

 

 ただ、当時の価値観でいうと、「比叡山攻撃命令」イコール「平家転覆の陰謀」と見ることも不可能ではないんだそうで。

 それに清盛が怒って、関係者を処分した、という見方もありです。

 

 この事件からはっきり言えることはひとつ、それは院と平家一門の対立が、かなり深刻なものになっていた、ということ。

 後白河院自身は処分を受けませんでしたが、有力な近臣を何人も失う結果になりました。元を辿れば自業自得な面もあるとはいえ、心中穏やかではなかったでしょうね。


23、2つの死


 鹿ケ谷事件の翌年、高倉天皇と中宮・徳子の間に、待望の皇子が誕生します。

 のちの安徳帝です。

 その年のうちに、皇子は皇太子に立てられます。平家の血を引く帝の誕生まで、秒読み段階です。

 ちなみに安徳帝の出産時には、後白河院も駆けつけています。

平家と仲違いしていても、孫の誕生となると話は別なんでしょうか。

 めでたく皇子が生まれたことで、両者の対立も、一旦は改善の兆しを見せたのですが……。

 

 翌年、平家一門を不幸が襲います。

 清盛の娘・盛子、そして長男・重盛が相次いで亡くなってしまったのです。

 

 盛子は、摂関家の当主・藤原基実の妻。

 あのエリート貴族の摂関家です。盛子はわずか9歳で基実の正妻となりますが、夫は若くして他界。

未亡人となった盛子は、基実の幼い息子が成人するまでの間、という条件付きで、莫大な遺領を相続しました。

 

 この一件は、「平家一門による摂関家の財産横領」であるとして、当時、問題にされていました。

 結果的には、平家一門との利害関係から、後白河院が黙認する形で決着したんですけど。

 

 しかし、彼女もまた、20代の若さで世を去ってしまいます。

 そうなると、盛子の遺産をどうするかで、また揉めることになりました。

平家一門との関係が悪化していた後白河院は、これを没収してしまいます。

 

 また、同じ年の7月に重盛が病気で亡くなると、その領地も一部取り上げてしまいます。

 重盛は平家一門の中でも、後白河院に近い立場に立ち、一門と院の対立が表面化してからは、両者の間で苦労が多かった人です。

そんな彼の死を悼むどころか、裏切るような院の仕打ち。

 

 後白河院は、わざとか天然か、こういう相手を怒らせるような行為に出ることがよくあります。

 わざとだとすると、敵対する者を挑発し、先に出を出させて、相手を処罰する大義名分を作る、という一種の政治手法なのでしょうか。

 清盛はわりと情の深いタイプですから、我が子の死に際しての、後白河院の「挑発」は効果てきめんでした。

 

 同年11月、清盛は軍勢を率いて福原から上洛。

 後白河院を幽閉し、その近臣を解官。

 力づくで敵を排除してしまいました。「治承三年の政変」と呼ばれる事件です。一種の武力クーデターですね。

 

 これによって、清盛は政治の全権をほぼ手中にします。

 表向きは、娘婿に当たる高倉天皇を傀儡に立てて、実質は自分たちの意向が政治に反映されるようにしました。

 

 史上初めての武士政権、「平家政権」の誕生です。

 

……ただ、その後の展開を見ると、このクーデターこそが戦乱のきっかけになった、と言うこともできるような気がします。

 クーデターの翌年、西暦1180年。

 いよいよ「源平合戦」が幕を開けます。


24、以仁王の乱


 後白河院には、子供が大勢居ます。

第一皇子が二条帝、第七皇子が高倉帝。それ以外の皇子は、だいたいみんな出家して俗世を離れています。

そんな中、第三皇子の以仁王という人だけは、出家もせず、帝位への望みをつないでいました。

なかなかに有能な人物だったみたいで、それだけにあきらめきれなかったのかも。しかし、結局は安徳帝の即位によって、彼の望みは断たれてしまいます。

 

 で、この以仁王。平氏政権は不当であると主張し、源氏の武将・源頼政や、反平家勢力である三井寺の僧兵らと協力し、反乱を起こします。

 

 これが「以仁王の乱」と呼ばれる事件です。

 「平家物語」では、数万の軍勢が以仁王のもとに押し寄せ、源平合戦の幕開けを告げる、華々しい合戦の模様が描かれています。

 ……まあ、この描写は物語的フィクションで、実際には、都の検非違使が数百人くらいで彼を捕まえに行っただけみたいですが。

(尚、以仁王が平家打倒を企てている、と平家サイドに密告したのは、遙かファンにはお馴染みの「藤原湛増」であるとされています)

 

 逃げる途中、以仁王は敵の矢に当たって敗死。反乱は苦もなく鎮圧されました。

 問題は、乱に先立って、以仁王が平家打倒の命令書(以仁王の令旨)を各地にばらまいたこと。

 皇子の命令を大義名分とし、さまざまな勢力が挙兵・蜂起。

 ここから、6年あまりに渡る内乱の時代が幕を開けます。

 

 こう言ってはなんですが、迷惑なことを……。

 見方によっては、私欲のために国中を内乱に巻き込んだようにも見えます。

 各地で挙兵した勢力にしても、皇子の思想に共鳴したのかといえば、そんなことはなく。

 主な原因は、当時の複雑な社会情勢にありました。


25、内乱の背景


 源平合戦の起きた12世紀末、国の支配の仕組みは、かなり複雑化していました。

 基本的には、朝廷に任命された「国司」や、その代理のお役人なんかが地方を治めることになっているんですが、実際にはこうした国司よりも、土着の有力者の方が権力を持っている、という場合が珍しくなかったようです。

 

 例えば、東北地方を治めた「奥州藤原氏」などが有名です。

特産品の砂金を輸出して、黄金文化とも呼ばれる繁栄を謳歌していました。半ば独立国のようだった、とも言われています。

 

 「遙か3」に登場した熊野水軍なんかもそうですね。

熊野三社と呼ばれる有名な神社があって、熊野詣というのが盛んに行われていました。

こうした神仏の権威を背景に、独自の水軍を組織して、大陸とも活発に商取引をしていたようです。

 

 奥州藤原氏や熊野水軍はやや特殊な例かもしれませんが、こうした財力プラス軍事力を持った勢力は、国のあちこちに存在していました。

地方の有力者同士で、支配領域を巡る争いが起きることも珍しくなかったようです。ですから当然、彼らは武装しています。

 

 武装した勢力が国中にあって、トップの力は必ずしも強くない。

 見方によっては、かなり不安定な社会かもしれませんが、それでも何百年かは、大きな争いのない時代が続きました。

 おそらく不安定なりに、うまく回ってたんでしょうね。

 当時の日本は物流も盛んで、同時代の大陸やヨーロッパなんかと比べれば戦乱も少なく、わりと暮らしやすい国だったようにも見えますし。

 

 しかし、12世紀も半ばを過ぎた頃、トップの権威がさらに失墜する事件が起きます。

それが「保元の乱」と「平治の乱」。

特に、前者の戦いでは、それまで国の中枢を牛耳ってきた摂関家の権力が大きく減退することになりました。

 

 平家一門という新興勢力の台頭も大きかったでしょう。

 上が変わるのを見れば、下だって考えますよね。

 自分たちには、金もあれば力もある。いつまでも国に頭を下げ続ける義理があるのか?いや、ない。

 でも、理由もないのに逆らったりすれば、「朝敵」扱いされてしまう。

「以仁王の令旨」は、そこにちょうどいい大義名分を与えてしまったのではないでしょうか。

 事実、挙兵した勢力の中には、どさくさまぎれに自らの支配地域を広げようと、隣りの領地に攻め入っただけの者も居たようです。

 

 いずれにせよ、この状況、放っておけるものではありません。

かくて船出したばかりの平氏政権は、いきなり全国的な内乱への対応を余儀なくされることになったのでした。


26、富士川の戦い


 8月には、源頼朝が挙兵します。

 平治の乱で伊豆に流された頼朝は、実に20年近くに及ぶ流人生活を送っていました。その彼が挙兵した理由――多分、色々あったんでしょうね。

 

 頼朝はまず、国の役人・山木兼隆の館を襲撃し、これを討ち取ります。

 しかしその後、平家方の武士・大庭景親に攻められて惨敗。命からがら、山中を逃げ惑います。

 この時に頼朝が討ち取られていたら、その後の歴史は随分、変わったものになっていたかもしれません。そうなる可能性も大いにあったんですが、時流は彼に味方しました。

 千葉氏や上総氏といった、関東の有力な豪族が、頼朝の味方についたのです。

 

 彼らは平家勢力の伸張によって、長年、圧迫を受けていました。

 平家はここ数十年の間で力をつけた、いわば新興勢力です。

 で、平家寄りの勢力が優遇され、そうでないものが冷遇される、という事態がそこかしこで起きていたのですね。

軍事貴族の名門・河内源氏の血を引く頼朝の挙兵は、千葉氏や上総氏にとってみれば、勢力挽回の好機だったのです。

 

 もともと関東地方は歴史的にも文化的にも、朝廷からの独立心が強い所です。

 「平将門の乱」や「平忠常の乱」など、過去に大規模な反乱が起きていることからもわかります。

 この動きに対し、平家は清盛の孫・維盛を総大将に、追討軍を派遣しました。

 平家側は官軍ですから、朝廷の名のもとに、各地の兵を集めることができます。

京を発った軍勢が東国に着いた時には、7万を超す兵が集まっていました(数字については、異説もあります)。

 

ただ、所詮寄せ集めですから、士気は低かったようですね。

そもそも、そんな大規模な遠征軍なんて、ちゃんと動かした経験のある人、居たのかなあ。……基本的に、日本は平和でしたから。

兵糧の確保がうまくいかなくて、そのせいで士気が低かった、という説もあります。

 

対する東国の武士たちには、自分たちの土地、イコール利権という、具体的な「守るもの」があります。

まして今は「以仁王の令旨」という大義名分に加えて、源氏の棟梁・源頼朝という、ちょうどいい旗頭もあります。

集まった兵の数は、一説には二十万とか。(数字については、やっぱり異説あり)

結果、維盛はろくに戦うことなく、兵を退くことになります。

 

これが世に言う「富士川の戦い」です。

合戦のあった場所が富士川の河口近くだったのでそう呼ばれます。

 『戦慣れしていない維盛が、水鳥の羽音を敵の攻撃と勘違いして逃げた』という故事が有名ですが、真偽は不明です


27、近江動乱〜南都焼討


東国遠征に失敗した平家は、その後、京周辺の反乱勢力鎮圧に乗り出します。

一方の頼朝も、すぐさま平家を追って京に攻め上る、ということはしませんでした。

首尾よく追討軍を追い払ったものの、彼の勢力も、けして一枚岩ではありません。まずは自身の足場である、関東平定を優先します。

 

ちなみにこの年、清盛は一時、国の首都を京から福原に移しています。

平氏政権は、史上初めての武士政権。

新しいことを始めるなら、従来の慣習やら地縁血縁に縛られない新しい都を作ろう、と思ったのか――まあ、理由ははっきりしないんですが。

 

ただ、この都移り、当時から非常に評判が悪かったらしく、準備不足などもあって、あえなく頓挫。

京に戻り、戦の準備を進めることになります。

まずは「以仁王の乱」に協力した反平家的な寺社勢力の粛清から、ということで、滋賀県の三井寺や、奈良県の興福寺などを攻めることになります。

 

「蜜月の終わり」のところでも少し書きましたが、当時、お寺や神社を攻撃するというのは、けっこう勇気の要ることでした。

なので、この攻撃が、史上初の本格的な寺院攻撃、になるんだそうです。

 

でも、戦いの前に、宗教的な意味合いの強い建物は攻撃しないと取り決め、そういった建物がうっかり延焼しそうになると、戦闘を中断して消火に当たったそうです。

「本格的な攻撃」って何だろう……。

一方で、「南都焼討」として知られる興福寺攻めの際には、お寺だけでなく、市街地を含むかなりの範囲が消失し、多数の犠牲が出ています。

こちらは連絡ミスによる失火、という説もありますが、真偽はわかりません。


28、相次ぐ訃報〜墨俣川の戦い


年が明けて、西暦1181年。

安徳帝の父・高倉上皇が、病気で亡くなってしまいました。

この人を傀儡に政権を動かしていた平家一門にとっては、大打撃です。

「院政」のルールでは、帝の直系に当たる父親か祖父が、政治を行わなくてはなりません。

安徳帝の祖父は、後白河院です。かくて、めでたく権力の座に返り咲き、となりました。

 

さらに二ヶ月も経たないうちに、平家一門の棟梁・清盛が病気で倒れてしまいます。

数日間、高熱にうなされた後、帰らぬ人となりました。

死因となった「高熱」の原因は不明です。時期が時期だけに、何らかの陰謀があったとしても不思議はない感じですが。

また、寺院攻撃直後の急死ですから、やはり仏罰か、と当時は噂されたかもしれません。

 

傀儡としていた上皇に続いて、強力な指導者まで失ってしまった平家一門。いよいよその行く手に暗雲が立ち込めてきます。

 

 ――4月。

 源氏と平家は、再びあいまみえます。

 戦った場所の名前から、「墨俣川の戦い」と呼ばれています。

 源氏側の大将は、頼朝の叔父・行家。平家側の大将は、清盛の息子・重衡です。

 

 この戦いは、平家側の大勝でした。

 重衡の軍は、逃げる行家軍に追撃をかけますが、そのまま東国まで攻めることはせず、途中で兵を退きます。

 相手の本拠地に攻め込むだけの力がなかったのか……また富士川の時のようになるのを恐れたのか。

 あるいは政治的な解決についても、まだあきらめていなかったのかも。

 とりあえずは専守防衛、ってことで、都に戻ります。

 

 のん気だな、と思われるかもしれませんが、全国規模の内乱自体、この国では例がありません。

 そもそも、戦う相手を殲滅し尽くすとか、負けた相手からは奪えるだけ奪い尽くすとか、そういう発想自体、当時の日本の「戦」にはなかったように見えるんですよね。

合戦に際しても細かいルールがあったりするくらいですし、戦うだけ戦ったら、適当な所で手打ちにしよう、みたいな空気を感じるというか……。

 ヨーロッパや中国とかの「戦争」と比べると、だいぶ違う感じですよね。


29、源義仲の挙兵


 西暦1180年は天候不順だったと伝えられており、1181年〜1183年にかけて、大規模な飢饉が起きます。

鴨長明の書いた「方丈記」によると、京市中の死者は4万人以上。

同時代の京の人口を調べてみると、多いところでも10万人、とか書いてあるのに、餓死者が4万人?

さすがに誇張じゃないのかなと管理人は思いますが……。

 ともかく、この飢饉によって、頼朝と平家一門の戦も、一時、小康状態となりました。

 

 しかし、各地の戦乱はおさまらず。

 同年6月、源義仲が挙兵。平家方の武士・城助職を倒し、北陸地方に勢力をのばします。

義仲は、頼朝や義経のイトコに当たる人です。

 と言っても、親戚付き合いなどはありません。あるわけないんです。

 なぜなら義仲の父親を殺したのが頼朝らの兄に当たる義平であり、それを命じたのが父親の義朝だから。

 ……なんて殺伐とした親戚付き合いでしょう。

 

この辺りの話は、「河内源氏の巻き返し」の所でも書きましたが、もう1度おさらいしておきましょう。

 父親が殺された時、わずか2歳だった義仲は、父親の部下だった斉藤実盛に助けられ、乳母の嫁ぎ先に預けられます。

 その嫁ぎ先というのが、信濃国の仲原兼遠という武士。

 以後、義仲は兼遠のもとで、彼の子供たちと共に育ちます。

 

 頼朝と同じ河内源氏の一族ではありますが、頼朝の味方というわけではなく、もちろん平家の味方というわけでもない、第三勢力。

 なお、頼朝の挙兵当時、「源氏の嫡流」を名乗る資格があるのは、頼朝だけではありませんでした。

 源義家の子孫に当たる新田義重とか、他にも居たんです。

 頼朝は、こういう人たちと戦ったり、あるいは味方に取り込んだりしつつ、勢力基盤を固めていったわけで、最初から源氏を代表する存在だった、というわけではありません。

 その点でも、「源平合戦」という言い方って、実は微妙なんですけどね。


30、官軍から賊軍へ


 飢饉が一段落した1183年、平家は北陸地方に大軍を派遣します。

 目的は義仲討伐……というより、北陸地方全体の反乱鎮圧だったようです。

 北陸は京にも近いですし、兵糧の調達場所としての意味もあります。東国で戦う前に、抑えておく必要のある場所でした。

 

 この時、派遣された兵力は、最低でも4万、多い方の説では8万くらいだったと言われています。一日では出発できなくて、都を出るのに数日かかったとか……。

 本当かな?とも思うけど、まあ細かい話は、ここでは省くとして。

 結論だけ言うと、平家は負けました。

 全滅、とまでは言いませんが、それに近いほどの決定的な敗北でした。

 

 この敗戦によって、平家を取り巻く状況は百八十度変わります。

 義仲は京を目指して進軍してきます。

京に残って、これを迎え撃つか。一旦は逃れて、勢力の挽回を目指すか。

 一門内部でも、意見は割れました。

 

 結局、逃げる方を選んだのは、敗戦のショックもあったのでしょう。

 安徳帝と後白河院、それに摂政・藤原基通ら重要人物を連れて、京を脱出することになりました。

 しかし後白河院はこの動きを察して、ひそかに逃亡、身を隠してしまいます。

 摂政・藤原基通も、この人は清盛の娘を妻にしていたのですが、一旦は逃げるフリをして、都に引き返します。

 仕方なく、平家一門は帝とその母だけを連れ、帝位の象徴である三種の神器を持って、西へと逃げることになりました。

 

 かくて平家は官軍から賊軍へと転落し、最終的には壇ノ浦で滅びることになったのです。

 

 ……この流れで、なぜ平家が滅ぼされねばならなかったのか。ここまで見ても、管理人にはよくわかりません。

 清盛はじめ平家一門が、何か決定的な罪を犯したでしょうか?

 建前上は「朝廷の敵」である叛乱軍と戦い、そして負けたというだけではないのでしょうか?

 

義仲の軍勢が京に迫っている――この前代未聞の状況の中、朝廷も後白河院も、京の守護者を平家から義仲へと乗り換えることで、危機を逃れようとしたんですよね。平家一門とその血を引く帝は、言葉は悪いけど見殺し。

 武門の家ですから、仕方ないのかもしれませんが……それは果たして、一族郎党、滅ぼされなければならない罪だったのでしょうか。


おわりに


 平家を追い落とした義仲は、一時、勢力を振るいますが、その後、後白河院と対立。

頼朝との政治的駆け引きに敗れ、義経との戦にも敗れ、最後は戦死します。

 

 一方、都を落ちた平家一門は、勢力を挽回し、かつて都のあった福原まで戻ってきました。

 京まで後1歩、というところでしたが、有名な「一の谷の戦い」で義経に敗れてしまったことで、結局は滅亡への道を辿ります。

 

 ただ――朝廷の側には、この戦いの前に、平家と和平を結ぶ道もありました。

 交渉によって、平和的に帝と三種の神器を取り戻すこともできたのです。

 でも、そうしなかった。なぜか。

 

 おそらくは、平家一門が、かつての栄華を取り戻すことを望まなかったから。

 平家が滅ぼされれば、平家の支配領域を取り戻し、ひいては朝廷の権威を取り戻すこともできる。そう考えたのかもしれません。……実際には、そう都合よくはいかなかったわけですが。

 

 平家討伐の功績によって、頼朝は朝廷から、東国の支配権を認められます。

 鎌倉幕府の成立です。

 でも、朝廷の力が失われたわけではありません。建前上は、まだ朝廷の方が立場は上でした。

東国と朝廷、2つのトップが並び立つ状態になった、と言うこともできます。

 

 鎌倉幕府が本当の意味で朝廷の上に立つのは、三十年後。

 後白河院の孫で、安徳帝の異母弟に当たる後鳥羽上皇と、鎌倉幕府が対立。「承久の乱」と呼ばれる戦いが起きました。

 この時は幕府側が勝利し、朝廷の貴族たちが大勢、処刑されます。

 後鳥羽上皇とその息子の順徳天皇は流罪となり、以後、鎌倉幕府は朝廷に対し、完全に優越します。

 

 歴史にifの話は禁物だってことはわかってますけど、もしも源平合戦の時、朝廷が平家を守っていたら。

 朝廷の番人として、一門が存続していたなら。

 承久の乱の結果も、もしかしたら違ったものになっていたかもしれない……なんていうのは、管理人のひいき目ですが。

 

 朝廷から幕府へ、政治の主導権が移り変わっていく。時代の大きな流れは、多分、変わらなかったでしょう。

 だからこそ、平家が滅びなければならなかった理由は何なのか。この先も、折に触れ、考えていきたいと思っています。

 

この「源平歴史解説」は、ひとまずこれでおしまいです。

 読んでくださった方、本当にありがとうございました(ふかぶか)。

 




ページのトップに戻る



サイトの入口に戻る