源平・歴史解説


1、はじめに


「遙かなる時空の中で3」というゲームをプレイしていて、ずっと疑問だったこと。

「そもそも、源氏と平家って、どうして戦ってるんだろう?」

シリーズ初タイトルである「遙かなる時空の中で」の時は、鬼の一族の侵略から京を守る、という非常にわかりやすい使命がありました。

また、自分の意思とは関係なく異世界に呼ばれてしまった主人公には、「元の世界に帰る」という大目標もありました。

しかし「3」では、一旦は元の世界に帰った主人公が、自らの意志で再び「京」に戻り、いつ終わるとも知れない戦いに身を投じます。それまでのシリーズ作品と「3」の大きな違いだと思います。

せっかく帰ることができた故郷に背を向けてまで、戦いの道を選ぶ……その理由は、もちろん大切な人を助けるためであり、プレイヤーとしても異論はないところなんですが。

そもそも、何のための戦いなのか。それがわからないと、主人公の目的も果たせないと思うんだけど……ゲーム中では、残念ながら納得できる答えには出会えませんでした。

 なので、自分なりに色々調べてみたのですが。

はっきり言って、ややこしいです。

一言で「これが戦いの理由」と言えるものは見当たらないし、源平合戦の時代から何代も遡らないと、本当のところは見えてこない感じ。

 

前置きが長くなりました。以下は管理人なりにまとめた「源平の歴史」をつらつらと書き綴っていく予定です。

素人が個人的趣味全開でまとめたものであり、勉強不足、事実誤認、偏見等、多々あるかと思います。少し(かなり?)平家びいきでもあります。あらかじめご了承ください。



2、そもそも「源氏」とか「平家」って?


まずは、両家のルーツをおさらいしておきましょう。どちらも皇族を祖に持つ、由緒正しい家系です。

 「源」や「平」は、帝の子供や孫が、臣籍に下る時に与えられた名字の1つ。

臣籍に下る、というのは、「皇族」から「臣下」になるということ。帝の血族とはいえ、全員が帝になれるわけではありません。名字をもらって臣下になることを「臣籍降下」と言います。

こうした「臣籍降下」はたびたび行われるので、一口に「源氏」「平氏」と言っても、実はたくさんの家系があります。

 

源平合戦を戦った2つの家系について言うと、

まず平家の方ですが、正確には「桓武天皇の曾孫・平高望を祖とする桓武平氏の庶流・伊勢平氏」となります。……長いです。単に「伊勢平氏」と覚えましょう。

 源氏の方は、清和天皇の孫・源経基から始まるので、「清和源氏」。頼朝や義経の家系は、その中でも河内国(大阪府の一部)を本拠地にしたので、「河内源氏」と呼びます。この呼び方も覚えておきましょう。


3、伊勢平氏の始まり


 「遙か3」の時代から、遡ることおよそ三百年。高望王(たかもちおう)という人が居ました。

 ゲーム中で、平家の将・忠度さんが「桓武天皇が曾孫、高望王が裔(すえ)……」と名乗りを上げていましたよね。その人です。

 この高望王、臣籍降下して「平高望」と名乗ります。

彼は国の役人として関東に行き、そこで天皇のひ孫という血筋を武器に、現地の有力者らと姻戚関係を結びます。

 彼の一族は、常陸平氏や坂東八平氏などいくつもの家系に分かれ、さまざまな土地で栄えました。

 

 高望王のひ孫に当たる平維衡は、伊勢国(三重県)に拠点を置きます。この家系が「伊勢平氏」と呼ばれる、のちの平家一門です。

また、坂東八平氏の中には、「遙か3」に出てきた景時さんの家、梶原氏もあります。

 頼朝の妻・政子さんの実家である北条氏も、一応、平氏の血筋であると名乗っています。(本当はそうではないという説も……)

 二位の尼こと時子さんの実家は、高望王の兄弟、高棟王を祖に持つ家系。

遡ればみんな、遠い親戚同士なんですね。


4、河内源氏の始まり


清和天皇から数えて、5代目に当たる子孫に、源頼信という人が居ます。

 彼は、河内国(大阪府の一部)に館を建てて本拠とし、ここで武士の集団=武士団を形成します。

そして、「藤原北家」という貴族の家と主従関係を結び、その力を後ろ盾として、勢力をのばしました。

 藤原家に仕える武士団で、姓は源。「遙か1」の藤姫と頼久のモデルなのでしょうね。(……とすると、藤姫の父親が藤原道長で、頼久のお父さんが源頼信……?)

 この頃、関東地方では大規模な反乱が起こっていました。乱を起こしたのは、平忠常という人。戦いは3年にも渡って続き、朝廷も手を焼くほどでした。

 頼信は、この忠常をうまく説得して、降伏させることに成功します。

 この功績が、河内源氏の地位をアップさせたのはもちろん、関東の武士の多くが、河内源氏の傘下に入ることになりました。

のちに源頼朝が関東地方の鎌倉を本拠としたのには、遡ればこの頃からの関係があります。


5、この世をば、わが世とぞ思う望月の…


 河内源氏と伊勢平氏は、それぞれ別の場所で勢力を張りつつ、京では朝廷に仕えました。

時は平安時代。

朝廷のトップに君臨するのは天皇です。

が、朝廷の実権を握り、政治を動かしていたのは、その臣下である有力貴族である場合がほとんどでした。

 

彼ら有力貴族は、王家と血の絆で結ばれることで、その力を維持していきました。

具体的には、まず天皇の后として自分の娘、あるいは妹などを送り込みます。運良く皇子が生まれれば、何とかして次期天皇にします。

そして自分は天皇をサポートする役職(摂政・関白)につき、天皇の祖父または伯父になることで権勢を振るいました。

こうしたやり方を「摂関政治」と呼びます。そして平安時代を通して、最も力を持っていた家系が「藤原北家」でした。

 この時代について調べていくと、武士も貴族も藤原さんが多くて大変まぎらわしいですが、それでも重要な家柄なので、覚えておきましょう。

 

 「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」

 

 ……という歌、聞いたことのある人も居ると思います。

この歌を作ったのは、藤原道長という人。

 欠けた所のない満月は、「完璧」なものの象徴。「この世は俺の思うままさ」と、かなり有頂天になって詠んだ歌です。

 そのくらい、藤原北家の権力はすごいものでした。

 

 河内源氏の源頼信と、伊勢平氏の平維衡は、共に藤原道長と主従関係を結び、「道長四天王」にも数えられました。

ちなみにこの頃は、源氏の方が家の格は上だった、とのことです。


6、院政の始まり


さて、政治の主導権を摂関家に奪われてしまった形の天皇家。

主権を取り戻そうとする試みは何度か行われましたが、なかなかうまくいきませんでした。

平安時代も後期になって、ようやく「院政」と呼ばれる新しい政治の形が生まれてきます。

簡単に言えば、天皇の代わりに、引退した元・天皇が政治を行うというもの。

 

摂関政治の仕組みを思い出してみましょう。

自分の娘ないし姉妹を天皇の母にすることで、孫もしくは甥でもある天皇を後見する、というのが摂関政治の基本です。

要は母方の血筋が重視されるのが摂関政治。

これに対して、天皇の父親が実権を握り、「天皇家の家長」として君臨するのが院政です。

院政を行う元・天皇は別名「治天の君」とも呼ばれ、事実上の君主として政治を行いました。

 

この仕組みが定着したのは、白河院という人の治世から、とされています。(多分、「遙か2」で「院」と呼ばれているのはこの人)

「遙か3」に登場した後白河院の曽祖父に当たる人です。

彼は息子の堀河天皇・孫の鳥羽天皇の治世にまで院政を行い、さらにひ孫の崇徳天皇を即位させて、77歳まで生きました。

 

まあ、この人が最初から「院政」を試みていたのかというと、別にそういうわけでもなくて、ライバルが早死にしたり、その他いろんな要素が絡み合って、結果的に権力が集中してしまった、ということのようですが。

権力が集中=独裁者、というイメージのためか、悪評も多いです。特に女性関係はにぎやかだったようで、そこから後述の「崇徳帝叔父子説」や、「清盛落胤説」などが生まれました。


7、院vs摂関家


院政の始まりは、それまで「摂関政治」で権力を握ってきた藤原北家(摂関家)にしてみれば、当然ありがたくないものでした。

もちろん表立って院に反逆したりはしませんが、隙あらば権力を取り戻したいと考えていたことでしょう。

 

河内源氏は、長年の付き合いから、摂関家と近い側に居ました。一方の伊勢平氏は、この頃、白河院に接近します。

院の近臣の1人に、藤原顕季という人が居ます。先祖を辿れば、この人も藤原北家の親戚ですが、本家筋ではありません。

母親が院の乳母をしていた関係で院と親しかったらしく、白河院時代、それなりに出世します。

もう1人、「清盛落胤説」のところで名前が出てきた「祇園女御」。院の寵愛深かったとされる女性です。

この2人が、どういう経緯でかはわかりませんが、白河院と伊勢平氏の間を取り持った人物である、とされています。

 

vs摂関家。

どうもこの辺りに、源氏と平家の対立の原点がありそうな感じ

院政の開始と、それに伴う摂関家の弱体化は、やがて両家の関係にも変化をもたらすことになります。


8、血塗られた一族?


 この頃、河内源氏では不祥事が続きます。

 棟梁・義家の次男である義親は、対馬守という官職についていました。

この義親が、現地で略奪を働いたり、役人を殺害したり、色々と問題を起こします。

結局、彼は流罪となるのですが、さらに流罪先でも狼藉に及んだため、ついに朝廷から追討命令を出されてしまいました。

 

 義家の死後には、内部争いが起きます。後を継いだ義忠が、叔父の義光によって暗殺されてしまったのです。

こうした内紛・不祥事は、当然、河内源氏の武名を損なうものでした。

 かくて河内源氏は凋落。

 

 話はそれますが……この一族。やたらと同族殺しが多い気が……。

 義家の孫(ひ孫という説も)である義朝は、後述する「保元の乱」で父と弟たちを自らの手で処刑していますし、それ以前にも、弟の義賢を息子の義平に討たせたりもしています。

 源平合戦で活躍した源九郎義経は、実兄である頼朝に追放されたことで、悲劇の英雄扱いされていますよね。

頼朝は、もう1人の弟・範頼を流罪、他にも源平合戦で活躍した部下を何人も誅殺しています。そして、自身は「事故死」。

 その頼朝の子・頼家は祖父である北条時政に暗殺され、頼家の後を継いだ弟の実朝は、頼家の遺児・公暁に暗殺されました。

 ……なんか呪いでもかかってるんでしょうか、この一族。


、伊勢平氏の躍進


 前項で、朝廷から追討命令を出された河内源氏の源義親を討ち取ったのは、伊勢平氏の平正盛でした。

 彼は義親の首を持って都に凱旋し、武名を高めます。

 

また、伊勢平氏は武名だけでなく、各地の「受領」を務めることで、財力も高めていきます。

受領とは、国の役人である「国司」の最高位です。ゲームに出てきた「但馬守」とか「常陸守」も同じです。

 本当は「守」の他にも色々あるんですが、わかりにくいので説明は略。地方に派遣されたお役人・地方長官をイメージしてください。

この「受領」という立場、身分はそう高いわけではありませんが……わりと儲かる、という説があります。

 まあ、お役人ですからね。やり方次第では、私服を肥やす……もとい、財を蓄えることもできるのかもしれません。

 

また、当時は水運が盛んで、伊勢はその重要な拠点でした。

のちに正盛の子・忠盛が、大陸にあった「宋」という国との貿易で多大な利益を上げたこと、平家の水軍力の強さなどから考えて、伊勢平氏がわりと古くから、交易や海運業で利益を上げていたのは間違いないと思います。

 

 当時、自力で交易など行うのは大変です。海賊から身を守るため、自ら武装しなくてはなりません。

 ……というか、既に自分たちが海賊と紙一重な存在だったりもするんですが。

 忠盛は、朝廷の命によって、瀬戸内海の海賊討伐もしています。

この際、表向きは「討伐」したことにして、適当に仕立てた「賊」を連行。海賊たちを配下に組み入れ、平家の水軍力をアップ、なんてこともしていたみたいです。

多分、平家に仕え、源平合戦を戦った「家人」の中には、先祖、もしくは自分が元海賊だった、という人たちも居たはずです。

 戸籍にはそんなこと残さなかったでしょうから、想像ですけどね。

 

この忠盛さん、「平家物語」にも色々おもしろいエピソードが綴られています。興味があったら調べてみてください。

彼は、白河院の次に院政を行った鳥羽院や、その子の崇徳帝にも信頼され、武士としては異例の出世を果たしました。

 公卿(高位貴族)の地位には後一歩届かなかったものの、彼の存在がなければ、のちの平家の繁栄はなかったでしょう。

当時・河内源氏の棟梁だった源為義の身分は検非違使その1。

 両家の差は、もはや歴然でした。


10、河内源氏の巻き返し


 伊勢平氏に大きく水をあけられてしまった河内源氏。

 為義の息子・義朝は、まだ若い頃に東国に下向し、そこで現地の豪族の後見を得たりしながら、独自の勢力基盤を築きます。

 やがて義朝の武名は都にまで届くようになり、当時、院政を行っていた鳥羽院に仕えることになりました。

 

 ちなみにこの人、頼朝と九郎義経のお父さんです。

 清盛とはだいたい同世代。2012年の大河ドラマ「平清盛」ではライバルキャラとして登場していました。

 あのドラマでもそうでしたけど、為義・義朝親子はあんまり仲がよくなかったみたいです。

 

 義朝は都に出た後、東国の勢力基盤を長男の義平(頼朝の異母兄)に任せていました。

 そこに、為義の命令で弟の義賢が下向し、勢力をのばそうとするや、義平に命じて、討たせてしまいます。

 自分の弟を、自分の息子に殺させたってことです。同じ河内源氏の一族なのに、完全に敵対しているようにしか見えません。

 そもそも、鳥羽院に仕えたことからして、摂関家との結びつきが強い為義に対抗するってことですから。

 少年期から父親と距離を置いていた所から見ても、2人の間には、何か確執があったのかもしれませんね。

 

 なお、殺された義賢には、わずか2歳の息子・駒王丸が居ました。

 父と共に殺されていても不思議はなかったこの幼児を、武蔵国の武士・斉藤実盛が助け、乳母の嫁ぎ先である信濃国に逃がします。

 駒王丸は、乳母の夫・中原兼遠の庇護を受け、この地で成長し、やがて元服して源義仲と名乗ります

 そして父の死から二十数年後、我こそは源氏の嫡流であると兵を挙げ、「源平合戦」の主役の1人になるのでした。


11、王家の権威を失墜させたスキャンダル?


 話を朝廷に戻します。

 白河院の死後、後を継いで院政を行ったのは、白河院の孫に当たる鳥羽院でした。

 院政というのは、帝の父親、または祖父が政治の実権を握る仕組み。当時、帝の座にあったのは、鳥羽院の息子・崇徳帝です。

 

 ところがこの親子、あまり仲が良くありませんでした。

そこには大変有名な醜聞が絡んできます。

 崇徳帝は、鳥羽院と中宮・璋子との間に生まれた第一皇子。

 ですが、本当の父親は、鳥羽院の祖父である白河院なのではないか、という説があります。

 

 璋子は早くに実父を亡くし、白河院の手で養育されました。要するに、義理の父娘みたいな関係です。

『彼女と白河院がひそかに通じており、その結果として生まれたのが崇徳帝である。それを知った鳥羽院は、崇徳帝を「叔父子」と呼んで疎んでいた(祖父の息子なら、自分にとっては叔父になるから、「叔父子」)』。

 ……というエピソード、後世では物語の影響などもあって有名ですが、真偽は不明です。

 実際にどの程度、噂になっていたのかわかりませんし、鳥羽院が本当に信じていたのか……も謎。

 

 鳥羽院は璋子との間に、五男二女を儲けています。

 最後の五男が生まれたのが、白河院の亡くなった数ヵ月後。ほぼ全員が、白河院の存命中に生まれているんですね。

 白河院はかなりの高齢だったとはいえ、彼と璋子の関係が事実だというなら、崇徳帝だけが白河院の子とする根拠がよくわかりません。

 

 鳥羽院は父である堀河帝の急死により、わずか5歳で帝になりました。

 彼にとって、後見人でもある祖父の白河院は、絶対的な存在だったのではないでしょうか。

白河院の死後、鳥羽院がその影響から脱したいと考え、政治的自立を目指したのは自然なことだと思います。

そのためには、白河院の息がかかった……もとい、即位させた崇徳帝ではなく、ちゃんと自分の手で後継者を選ぶ必要があったのでしょう。

 

 その後、鳥羽院は璋子に代わって、美福門院得子という女性を寵愛するようになり、彼女との間に生まれた皇子を帝位につけるため、かなり強引な手段で崇徳帝を退位させてしまいました。

代わって天皇となったのは、異母弟に当たる近衛帝です。

 引退した天皇は「上皇」と呼びます。「太上天皇」の略だそうです。

 以下、崇徳帝は上皇、または新院と呼ばれます。


12、摂関家の兄弟げんか


 王家で親子対立が起きていた頃、摂関家では兄弟対立が起きていました。

 

 摂関家の当主・忠通には、長い間、後継ぎが生まれませんでした。そこで、年の離れた弟である頼長を後継ぎにします。

 しかし運命の悪戯というか、よくある話というか。その後、忠通には男子が生まれます。しかも次々と。

 そうなると、やはり自分の子が可愛いというのが人の性なんでしょうか。

 弟との約束を反故にして、自分の息子を後継者に指名しちゃいます。

 

 頼長も怒りましたが、2人の父親である忠実も黙っていませんでした。

 1度は忠通に譲った家督を取り上げ、頼長に家を継がせようとします。その方法というのが……。

配下の武士に命じて、息子・忠通の邸を襲撃。家督の象徴とも言える家宝を強奪させちゃうんですよ。

自分の息子相手とはいえ、武装した集団を差し向けて……それは普通、「強盗」と言いませんかね?

かくて兄弟・親子間の亀裂は、もはや修復不可能な状態になりました。

 

 ちなみにこの命令を受けた武士が、河内源氏の棟梁・源為義だったりします。頼朝・義経兄弟のおじいさんです。お偉いさんの命令とはいえ、仕事は選びましょうよ……。


13、保元の乱へ@


 さて、兄に代わって摂関家の当主となった頼長。

 彼は政治への意欲も高く、非常に優秀な人物だったようなのですが、人望の方はいまいちでした。

 学問大好きで、和歌や漢詩は苦手。理想が高くて、融通の効かないタイプ。

 そのため周囲と衝突することも多く、次第に朝廷内で孤立していきます。

 

 西暦1155年、近衛帝がわずか17歳で世を去ります。

 すると、「近衛帝が亡くなったのは、頼長が呪詛したせいだ」という噂が流れます。

 まあ、頼長が帝を呪っても別に得するわけじゃなし、普通に考えれば、頼長を陥れるための陰謀っぽいですが。

 問題は、この「陰謀」を企んだのが誰なのかということ。

 前述のように、この頃の朝廷では、色々と不穏な空気が渦巻いています。

 鳥羽院と崇徳院の親子対立、忠通と頼長の兄弟対立、さらに院と摂関家も、もともと仲がいいわけではありません。

こうした対立は、それぞれの陣営に属する貴族や武士たちの間にも当然、対立を引き起こし、やがて「保元の乱」と呼ばれる武力衝突へとつながっていきます。

 「乱世の始まり」と呼ばれ、武士たちの地位を高める契機になった……と、されている事件です。


14、「保元の乱」へA


 早世した近衛帝には、皇子が居ませんでした。当然、次の帝は誰になるか、が問題になります。

 有力な候補は3人。

 

 崇徳院の皇子・重仁親王。

近衛帝の姉・ワ子内親王。

雅仁親王(崇徳院の弟)の皇子・守仁親王。

 

 年上優先、男子優先という建前に従えば、崇徳院の皇子・重仁親王が帝に選ばれるのが正しい、ということになります。

ただ、そうなると困るのが、鳥羽院とその妻・美福門院。

「院政」とは、帝の父親ないし祖父が権力を握る仕組み。なので、重仁親王が帝になれば、その父である崇徳院の力が強まるのは必至。

崇徳院と仲の悪い2人にしてみれば、それは避けたいわけですね。

 

 2人目の候補・ワ子内親王は、亡くなった近衛帝の姉。

鳥羽院と美福門院にとっては、最愛の娘でもあります。

 本音は、彼女を帝にしたかったかもしれません。しかし男性皇族の候補が居る以上、これも反対の声が上がります。

 

 3人目の候補・守仁親王は、鳥羽院の孫で、崇徳院や近衛帝の甥に当たります。

彼は生まれてすぐに母親を亡くし、美福門院の手によって養育されました。

我が子にもしものことがあった時のことを考え、有力な皇族をあらかじめ手元に置いていたのかもしれません。だとしたら、なかなか抜け目のないところですね。

しかし、彼を帝に選ぼうとすると問題になるのが、父親の雅仁親王の存在です。

父親を飛び越して息子が帝になるというのは、道理に反するだろう、とやっぱり反対の声が上がります。

 

 雅仁親王とは、鳥羽院と中宮・璋子の間に生まれた第四皇子で、亡くなった近衛帝から見れば異母兄。崇徳院から見れば、同じ父母を持つ弟ということになります。

 ただ、第四皇子だけあって、政治的にはずっと日の目を見ませんでした。昼夜を問わず遊興にふけり、「遊興の皇子」とも呼ばれたほどです。

この人だけはありえない、と誰もが思っていたのに、選ばれたのは、その雅仁親王でした。

 息子の守仁親王をその次の帝にするため、いわば中継ぎとして。

 この逆転劇には、実は影の参謀が居たようなんですが、それについては後述。

 

 ともかく雅仁親王は皇位につきました。

 彼こそが、のちの後白河院です

 源平合戦の影の立役者。源頼朝に「日本一の大天狗」と呼ばれた男。

 

ちなみに、摂関家の当主・藤原頼長は、ちょうど妻の喪に服していたため、朝廷に出仕することができませんでした。

間の悪い偶然か、ハブにされたのか。いずれにせよ、次の帝を決める場に同席すらできなかったというのは、かなり痛いですよね。

朝廷内で孤立する頼長と、国政に参加する望みを断たれた崇徳院。

この後2人は、さらに追いつめられていきます。


15、保元の乱へB


 西暦1156年。鳥羽院が世を去ります。

すると、事態は急転。

 数日後、後白河帝の名前で「軍兵を集めることを停止する」という命令書が諸国に発せられます。

 理由は、「国家転覆を企む大臣(頼長)が兵を集めるのを阻止するため」。

 摂関家の当主・頼長は、突然、謀反人の罪をかけられたのです。

 

 この時、頼長が具体的に何かしていたっていう記録はありません。

 いきなりの謀反人扱いは、本人にとっても青天の霹靂だった、かもしれません。

とにかく、このままでは謀反人として罰せられてしまう頼長は、起死回生の策として、崇徳院を担ぐことにします。「こっちの方が正当な支配者だ。自分は謀反人ではない」と示すために。

 そして、集められる限りの兵を集めます。その中には、主従関係にあった河内源氏の一族も当然、含まれていました。

また、伊勢平氏では唯一、清盛の叔父に当たる平忠正とその一族が頼長に味方します。

 

 で、これを見た後白河帝側は、「どうだ、噂は本当だった」とばかりに、こちらも兵を集めます。

 この召集に応え、伊勢平氏の平清盛をはじめ、都の武士たちが続々と集まってきます。

 別に後白河帝の人望というわけではなく(「遊興の皇子」にそんなものあるわけないし)、帝側に義があるようにも見えないので、単に優勢なのが明白だったからではないかと思います。

 武士たちにとっては、こんな手柄を上げるチャンス、めったにないですしね。

集まった武士たちの中には、父とは別の勢力を築いていた河内源氏の源義朝も居ました。

 

 貴族らにも同様の召集がかけられましたが、ほとんどの貴族が「鳥羽院の喪に服さなければならないので、行けません」との答え。

 とりあえず日和見っていうか、危ない橋は渡らないっていうか。

 人気のなかった頼長は別として、崇徳院に対しては多分、同情的な貴族も居たと思うんですけどね。

 ただ、弟と対立していた摂関家の藤原忠通は、当然、後白河帝側に加わります。

 お互いに兵を集めた崇徳院側と後白河帝側。乱世の始まり・「保元の乱」まで、秒読み段階です。




16、開戦・そして決着 へ進む



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