還内府の章 三十五、井上黒の脱走(2)

 

 捜索は容易いはずだった。

 京の道は舗装などされていない。馬が通れば、当然、足跡が残る。

 将臣が邸を出ると、すでに先に行った武士たちが残された足跡を辿って馬の行方を追い始めていた。

 これならすぐに見つかるだろうと踏んだのも(つか)()

 しばらく行くと、足跡は寺の境内に入り、そこで途切れていた。

 柔らかい下草を踏んでいったのか、敷き詰められた砂利や敷石の上を通ったのか。いずれにせよ、手がかりがなくなってしまった。

 寺の周辺を探しても馬の姿はなく、僧たちに聞き込みしても有力な目撃情報はなし。

それから武士たちと共に捜索を続けたが、馬の姿どころか影さえ見つからない。

数時間もたつ頃には、武士たちの顔にも焦りが見え始めた。

 その様子を見て、将臣もようやく理解した。さっきの実盛の取り乱し方といい、『後白河院から賜った馬』を逃がすというのは、かなり洒落にならない事態であるらしいと。

 もしも、このまま馬が見つからなかったら。

 当然、馬の持ち主である宗盛に連絡が行くだろう。宗盛はショックで倒れるだろうか。……あるいは、怒り狂うか。

(尼御前に相談してみるか……)

 時子なら、宗盛を諫めることもできるはずだ。

あらかじめ事情を話して、協力を求めておいた方がいいかもしれない。そして万が一にも、実盛が責任を取って死ぬような事態は避けられるようにしておかなければ。

 将臣は武士たちと別れ、急ぎ、邸の方角へと向かいかけた。

 ――辻を曲がったところで、拍子抜けした。

「なんだおまえ、ここに居たのかよ」

 道端のくさむらで、探していた当の馬が草を()んでいたのだ。

「……って、俺1人の時に見つけてもなあ……」

 一応、馬術も習っている。ただ、この世界の馬は野性的で気の荒い奴も多く、初対面の人間がほいほい乗りこなせるものではない。

「あー、おい。井上黒、つったか」

 名前を呼ぶと、馬は顔を上げた。

「あのな、俺は別に怪しいもんじゃない。おまえの主人のことも知ってる。おまえが逃げると、みんな困るんだ。……その、なんだ。一緒に帰ってくれないか?」

 馬は逃げなかった。それどころか、とことこと将臣に近付いてきた。

「なんだ、素直じゃないか」

 将臣はまた拍子抜けした。

 手綱にふれても、馬は逃げようとしない。太い首をなでてやれば、嬉しそうに甘えてくる。

「よしよし、いい子だ。一緒に帰ろうぜ」

 しかし、手綱を引いて連れて行こうとすると、馬は嫌がるような素振りを見せた。

「ん、どうした?実盛さんの邸はこっちだろ」

 引く力を強めれば、ほんの2、3歩歩く。そしてまたすぐに立ち止まってしまう。

 四肢を踏ん張って抵抗するわけではない。大きな瞳で、じっと訴えるように見つめてくる。将臣はなんとなく罪悪感を覚えた。

「……なんだよ。何か言いたいのか?」

 馬は返事の代わりに、体の向きを変えた。ちょうど鞍の位置が将臣の正面に来るように。

「まさか、乗れって言ってんじゃないよな?」

 ぶるる、と馬が鼻を鳴らした。

「いや、無理だって」

 再び、じっと見つめてくる。哀願のまなざしだ。

「その目はやめろ。……わかったよ。その代わり、ちゃんと実盛さんの所に帰ってくれるか?」

 馬が嬉しそうに瞳を輝かせた――ような気がした。

「よっ……と。これでいいか?」

 将臣は(あぶみ)に片足をかけ、ひょいと馬の背にまたがった。

急に目線が高くなる。

 どっしりした体躯、バランスの取れた四肢。

 こいつは軍馬なのだとあらためて思った。

「さ、帰ろうぜ……って、おい!?」

 いきなり、馬が走り出した。

 小路(こうじ)を駆け抜け、道行く人々を驚かせて疾走していく。

 何というスピードだろう。まるで一陣の風だ。これほどの速さを、かつて将臣は体験したことがない。

 手綱を引く余裕もあればこそ。必死にしがみついているだけで精一杯だ。

 そうこうしているうちに、どこかの邸の塀らしきものが目の前に迫る。

「おい!ぶつか……!」

 将臣が叫んだ時、馬が跳んだ。

 鮮やかな跳躍だった。実盛の邸から逃げ出した時と同じく、軽々と塀を飛び越して。

 その向こうは、広い庭だった。

 庭というやつは、だいたい池がある。

 舟遊びもできる池だ。それなりに深さもある。

派手な水音と共に、盛大な水しぶきが上がった――はずだ。

「ぷはあっ!」

 将臣は水面に顔を出した。

「うー、寒っ……!」

 水浴びには、いささかつらい季節である。頭からつま先までずぶ濡れになって、どうにか陸地に這い上がる。

 馬の方は、すでに水から上がっていた。大きな体を震わせ、しぶきを払っている。

「……よう」

 聞き覚えのある声に、将臣は顔を上げた。

「なんだ。戻ってきちまったのか」

庭に面した邸の廊下に、知盛が寝転んでいる。辺りを見回して確かめるまでもなく、そこは自分が居候している六波羅の邸であった。

「随分と、意表を突いたご登場だな……」

 知盛が言う。声は眠そうだが、目だけはおもしろそうに輝いている。

「好きでやったわけじゃねえよ――へくしっ!」

 返事と一緒に、くしゃみが出た。知盛は寝転んだまま、手だけを上げて一方を指差し、

「お忘れならば言っておくが……邸の門は向こうだぜ?」

「だから、好きでやったわけじゃねえって」

 将臣は、こうなった原因――井上黒とかいう名の馬に目をやった。

 とことこと、知盛の方に近付いていく。

 知盛が手を出してやると、嬉しそうに鼻をすりつける。

「こいつ、宗盛の馬なんだって?」

「……ああ、そうだ」

 気だるそうにつぶやきながら、知盛は室内を見やった。

将臣もその視線の先を追った。

……あ」

衝立(ついたて)陰になっていて気づかなかった少し奥に入った場所に、宗盛が座り込んでいた。

腰を抜かし、両目を見開き、ぱくぱくと口を開け閉めしている。もしかすると説教の途中だったのかもしれないが……今は言葉も出ないといった有様だ。

「あー、ちょっとばかり、驚かせちまったか……」

 昼日中から、軍馬が塀を飛び越えて庭池にダイブしてきたら、まず大抵の人間は驚くに違いない。平然としている知盛の方がおかしいのだ。

 とはいえ、このままではまずい。非常にまずい気がする。将臣は弁明を試みた。

「あのな。これには事情があるんだ。不可抗力ってやつだ。わかるか?」

「斉藤の邸に行ったはずのおまえが……兄上の馬に乗って、庭に飛び込んできた事情か?」

 それはさぞ興味深いものだろう、と言いたげに、知盛が口の端を歪める。

「だからなあ……どう言やいいんだろうな」

 弁解の必要は感じるが、うまい言い訳が出てこない。

「まあ……、こいつにはもともと、厩を抜け出す癖はあったが、な……」

 つぶやくように言いながら、知盛が馬の鼻面をかいてやる。

「なんだそりゃ?どういうことだよ?」

「…………」

「そもそも、なんで宗盛の馬が、実盛さんの所に居たんだ?」

「…………」

「おい、何とか言えって」

 しつこく追及すると、知盛は「面倒だな……」とか文句を言いつつ、やがてゆっくりと話し始めた。

 もとは宗盛に贈られた馬であるから、宗盛の邸で飼っていたそうだ。

知盛の言う『癖』については、邸を逃げ出すわけでもなく、そのうちまた勝手に戻ってくるので、放っておいたらしい。生真面目な宗盛にしては適当な話だと思ったが、意外に鷹揚な一面もあったということか。 

 とはいえ、予期せぬところで馬が現れれば、不都合が起きることもある。

 宗盛が来客を迎えている際に、折悪しく、この馬が厩を抜け出した。

 御簾(みす)の向こうにうつった黒い影に、宗盛も来客も肝を潰し――その際、宗盛は秘蔵の白磁を割ってしまった。

「あー、そりゃまた……」

 宗盛は怒り心頭だったそうだ。とはいえ、院から賜った馬を、まさか送り返すわけにもいかない。とりあえずは知盛に押し付け――いや、知盛の邸で預かることになった。

「それがなんで、実盛さんの邸に居たんだ?」

「さて、な」

「さてな、じゃねえよ。要は、おまえも押し付けたんだろうが」

 将臣の決め付けを、知盛は否定しなかった。

 当の井上黒は、こっちの話など聞いていない。今度は、知盛の銀髪を甘噛みしている。

痛くないのだろうか。知盛は平然としている。

「院からもらったとかいう、大事な馬なんだろ?」

「まあ……な」

「だったら、ちゃんと面倒見ろよ。そもそも、勝手に逃げ出したりするのをほっといたのが悪いんだろ」

 宗盛にも聞かせるつもりで言ったのだが、あいにく、向こうは反論しようにも、言葉を出せる状況にない。

「宗盛兄上は……、こいつのことが最初からお気に召さないようだったからな……」

「なんでだよ。癖のことはともかく、いい馬じゃないか?」

 将臣はたった今それを体感している。

 走りだけでなく外見も、そこらの馬とは違うのが素人目にもわかる。見事な黒毛で、額と、前足の先だけがわずかに白い。

「昔……兄上が落馬した挙句に踏まれた馬が、確かこんな毛並みだったからな……」

 2人がまだ幼い頃、知盛の目の前で起きた出来事だそうだ。

「……よく生きてたな」

「悪運だけは強いからな……」

「へえ、人は見かけによらないな。もしかして、他にもあったのか、そういうの」

 将臣は少しだけ興味をひかれた。

「そうだな……他に、といえば――」

「……いい加減にせぬかっ!!

宗盛が言葉を取り戻した。

よく考えたら、こうなる前に、さっさと逃げればよかったのでは……。

気づいても後の祭りだ。2人並んで座らされ、頭から説教の雨である。

 ふと見ると、少し離れた廊下の影に、重衡の顔がのぞいている。

 兄が正座させられている姿がよほど愉快なのか、しばらくは立ち去りそうもない。

 知盛も当然、気づいていて、後で斬ってやると目だけで告げている。

「あのな、実盛さんが邸で待ってんだよ。他の奴らも大勢、この馬を探してるんだって」

必死で訴えた結果、どうにかその場は解放された――。ただし宗盛は、「後で自分の邸に来るように」としつこく念押ししていたが。

将臣は聞き流しておいた。多分、自分ではなく知盛に言ったのだろう。そうに違いない。

 ずぶぬれになった着物を替えてから、将臣は井上黒を連れて実盛の邸へと向かった。

 無事に戻ってきた馬を見て、実盛は涙を流さんばかりに喜んだ。

 馬の方は現金なもので、実盛の腕にも同じようにすり寄っていく。

「よかったな、実盛さん」

 将臣は心から言った。

 しかし実盛はふいに厳しい表情を浮かべて、きっぱりと首を横に振った。

「いえ、責任が――」

「無事に戻ってきたんだから、いいじゃないか」

将臣が言っても、実盛の表情は変わらない。

しょうがないので、横でそ知らぬ振りをしている知盛を肘で小突いてやる。

「おい、何とか言えよ」

 知盛は面倒くさそうに口をひらいた。

(くら)は、誰がつけた?」

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。実盛も同じだったようで、ぽかんと知盛の顔を見つめている。

「井上の鞍だ。……(うまや)に居たのなら、つけていなかったはず、だろう?馬が自分で身につけた……とでも?」

 将臣はあきれた。

「こんな時に、笑えない冗談はやめろ。……けど、そうだよなあ」

 井上黒は無邪気なまなざしで知盛を見つめている。

 主人に会いたくて――いや、乗ってもらいたくて、鞍と手綱をつけて会いに行った。

 ありえない話なのに、ありえそうに思えるのはなぜなのだろう。

「まあ、どうでもいい、か……」

「いや、どうでもいいってことは――」

 ねえだろ、と言いかけて、思いとどまった。深く追及すると、実盛はまた責任がどうとか言い出すだろう。

「ほら、いいってよ、実盛さん」

「ですが――」

「宗盛の奴も、別に怒ってなかったさ。な?」

 そう言って、知盛に目配せを送る。

知盛は無表情だ。将臣の嘘を否定もしないが、かといって肯定もしない。

実盛も信じられないという顔で、

「宗盛様が……まことにございますか?」

「ああ、これからもよろしく頼むってよ」

 大嘘である。

「さ、行こうぜ。日が暮れちまう」

 わざと軽い口調で言って、帰ろうとした時――井上黒という名の馬が、ぶるると鼻を鳴らした。

 じっと訴えるような目は、知盛を見ている。

「やっぱりこいつ、おまえのこと主人だと思ってんじゃないのか?」

「1度乗ったからな」

 さして気を引かれた様子もなく、知盛は歩き出そうとした。

くい、とその手が後ろに引っ張られる。見れば、馬が長い首を伸ばし、知盛の着物の袖をくわえていた。

「しつこい」

 すごすごと首を引っ込める。将臣は見ていて哀れに思った。

「もうちょっと、構ってやったらどうだ?」

 しかし知盛はそっけなく、

「戦場に連れていけば……嫌というほど、乗れるさ」

「連れてくのかよ?」

「他に……どうしろと?」

 それはそうだが、この人懐こい馬に戦場というのは酷な気がする。

 知盛は整った容貌に氷のような笑みを浮かべて、

「存外、使える奴だ。踏めと言えば……踏むしな」

 将臣はひやりと寒気がした。何を踏ませるのか、とは敢えて尋ねる気もしなかった。

 ――邸を出たところで、知盛とは別れた。

「はあ……くたびれちまったな」

 ぬれた着物のまま正座させられて、説教をくらったりしたせいか。なんとなく体が重い。

 帰ったら一風呂浴びて、さっさと寝るとしよう。

 思わぬ騒動に暮れた1日であったが、ひとまず一件落着だ。

この時の将臣はそう思っていた。後日、同じ馬のせいで、また大変な目に合うことになるとは知らずに。




三十六 に続く



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