還内府の章 三十五、井上黒の脱走(1)

 

「ふう。危なかったな」

 実盛と並んで六波羅の町を歩きながら、将臣はたった今出てきた邸の方角を振り向いた。

「…………」

 実盛の返事はない。浮かない顔で考え込んでいるのは、次の戦のことか、それとも維盛のことか。

「実盛さんはやっぱり、維盛に大将をやってほしいのか?」

 他の『維盛派』の武士たちのように。

「それは……無論、そうなればよいと思ってはいますが……

 実盛は言葉を探すように1度口ごもり、

「維盛様は、お優しい方でございますから。この老骨には、それが気がかりで――」

 そうだろうなと将臣は声には出さずに思った。

 付き合いの短い自分でも心配になるくらいなのだ。家族や親しい人間が何も感じていないはずがない。

「けど、戦に行かないってわけにもいかないんだろ?」

「……はい。知盛様も仰っていた通り、富士川の汚名を消すすべはそれ以外にございませぬ」

「…………」

 将臣は無言で頭をかいた。

 何かないものだろうか。維盛が無理に大将などせず、皆に認められる方法が。もっとも、そんな都合のいい手があったら、実盛も悩んでなどいないと思うが。

 2人でため息をつきながら歩いているうちに、実盛の邸が見えてきた。

 建物自体は質素だが、邸を囲む敷地は広く、馬術や弓術の鍛練場になっている。実盛の面倒見のいい性格もあって、よく一門の若い武士たちが集まっている場所だ。

 今日も7、8人の武士たちが武芸の稽古に励んでいた。――その中から、1人。見知った顔がこちらに近付いてくる。

「おう、将臣殿!」

 体格自慢の武士たちの中でも、ひときわ背が高く、がっしりと肩幅が広い。

「なんだおまえ、また来てたのかよ」

 平(みち)(もり)。亡き清盛の甥である。弟・(のり)(つね)と共に、平家でも一、二を争う剛の者として知られている。別名・門脇兄弟。

「久しいな。達者にしておったか?」

 大股で歩み寄ってくると、ためらいなく将臣の肩を叩く。いや、張り飛ばす。

「あたたた……おまえ、少しは手加減しろよ」

「すまんすまん」

と言いつつ、通盛は豪快に笑っている。

 悪い奴ではない。気さくで、裏表のない男である。

 一門の中では珍しく武芸一筋、歌も読まない、楽も(たしな)まない。

 やや豪快過ぎる性格が祟ってか、三十路(みそじ)に差し掛かっても、いまだ独身。

「さては貴殿も、例の御前(ごぜん)試合の噂を聞いて、己の腕に磨きをかけんと参ったか」

「は?御前試合?」

「なんだ、知らぬのか。此度の宴の趣向よ。一門の武士たちが腕を競い、勝ち残った者には、帝から直々に褒美を(たまわ)るそうだ」

「へえ……そんなのがあるのか。あんたも出るのか?」

 当然うなずくだろうと思ったら、通盛は首を横に振った。

「いや、やめておく。今はそれどころではない……いや、少しばかりやっかいな問題を抱えておってな……」

「?」

 珍しく歯切れが悪い。通盛はごまかすようにごほんと咳払いして、声を大きくした。

「だが、教経は出ると言っておったな。今回は、あやつに花を持たせてやるとしよう」

「あー、確かにあいつは好きそうだよな、そういうの」

 教経は根っからの武人タイプだ。自分を鍛え、強い相手と戦うことを生きがいにしている。御前試合、などという話に張り切らないはずがない。

「今日は来てないのか?」

「うむ、来ておらん。大方、どこかで鍛錬に励んでおるのだろうが……」

 将臣はあらためて広い鍛錬場を見回した。

 木刀で打ち合う者、馬にまたがり、弓で的を射る者。いつにもまして熱気にあふれているのは、その御前試合とやらがあるせいなのだろうか。

 そんな中を、黒い馬が1頭、ぽくぽくと歩いているのが将臣の目に止まった。

 実盛は軍馬の世話や管理もしており、この邸にも立派な厩がある。だが、その黒い馬は背中に鞍こそつけているものの誰も乗せておらず、何やら奇妙だった。

 実盛が顔色を変えた。

「誰が井上(いのうえ)(ぐろ)を外に出したのだ?」

 悲鳴のような声に、辺りの武士たちも振り返る。

「……井上黒?」

「捕らえろ!」

誰かが叫び、黒い馬めがけて殺到する武士たち。

 当然、馬は驚いた。

「いかん!」

 実盛の声。

 その直後に起きた出来事は、将臣の想像を超えていた。

 取り押さえようとする武士たちの手を、黒い馬は軽やかにかわし、さらには邸の塀さえ飛び越えて、逃げ去ったのである。

「……嘘だろ」

 将臣はあっけにとられた。

低い塀ではない。普通、飛び越すか。

「なんたることだ……」

 実盛がよろよろと地面に膝を付く。

「どうした?実盛さん」

 実盛は言葉も出ない様子だ。鍛錬場の武士たちも呆然としている。いつもは快活な通盛も、眉間にしわを寄せて深刻な表情を作り、

「あの馬は、後白河院から宗盛殿に贈られた祝いの馬だな。確か、知盛殿が預っていると聞いたが……」

「ゆえあって、私が知盛様からお預かりしたのです」

 実盛が立ち上がる。決然とした表情に変わっている。

「万一のことあらば、この命を以って償いを――」

「おいおい!?」

「お止め下さいますな、将臣殿。それが武士というもの――」

「いや、止めるだろ。実盛さん、落ち着け!早まんな!」

「まずは、皆で手分けして探すことだな」

と通盛が言った。

「しかし、あの様子では、捕らえるのは骨が折れそうだな……」

 実盛は必死に首を振った。

「あれは脅えていただけです。賢い馬です。よく言って聞かせれば、人の言葉も理解します」

 わかった、とうなずいて、通盛は辺りの武士たちに向かって叫んだ。

「馬を見つけても、手荒にするな!まずは声をかけろ!院からの賜りものだ、けして傷つけてはならんぞ!」

その声で、呆然としていた武士たちも動き出す。

将臣も黙って見ているわけにはいかない。

「俺も行ってくる。みんなで探せばだいじょうぶだろ。実盛さん、妙な気起こすなよ」

「ですが、こうなった以上、責任は私に――」

「だーかーら!たかが宗盛の馬だろ。深刻になるなって」

「…………」

 実盛は思いつめたような表情のまま。

 一刻も早く、馬を見つけるしかなさそうだ。将臣は邸を飛び出した。




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