還内府の章 三十三、星に願いを(3)
「すごいすごい!高いぞ!」
帝の歓声が、内裏にこだまする。
「空が近い!星まで届きそうだ!」
将臣の肩の上で、帝は夜空に向かって大きく手を伸ばした。
「おい、落ちるぞ」
と声をかけたら案の定、バランスを崩したらしい帝が「うわっ」と言って頭にしがみついてきた。
「もう下りるか?」
「まだだ。もっと遠くへ行こう、将臣殿」
帝が前を指差す。こんなやり取りも、何やら懐かしい。
初めて内裏を訪れたあの日のように、将臣は帝を肩車して、内裏の庭を歩き回った。
少し離れた場所で、平家の人々がその様子を見守っている。
時子はほほえましそうに。知盛と重衡は、酒を飲みながらおもしろそうに。さっき帝と将臣の仲を心配してくれた清宗は、いかにもホッとした顔で。幼い弟の副将丸は、その膝にもたれて眠ってしまっている。
帝の母親、建礼門院だけは、あいかわらず扇で顔を隠していて表情が見えない。
ただ、扇の陰からほんの少しだけのぞく瞳は、我が子の姿を見つめている。その目は時子と同じく、ほほえんでいる気がした。
「将臣殿」
帝の声が、耳元でした。ついさっきまでとは違い、ひどく真面目な声だった。
「ん?どうした?」
「…………」
帝はしばしためらった後、
「将臣殿は私の友達だな?」
と確かめるように言った。
ふっと将臣は笑った。すっかり機嫌は直ったのかと思えば、やはりわだかまりは消えていなかったか。……多分、それを聞くタイミングをずっと伺っていたのだな、と思った。
「おう」
「これから先も、ずっとずっとだな?」
「…………」
念押しされて、少し迷った。
もっとこの世界のことを知ろうと――気楽な客人のままで居るのは、終わりにしようと決めた。
だが、それでも将臣は、この世界の人間ではない。いつか自分の世界に帰りたいと願っている。
そうなれば、帝ともお別れだ。帝だけではない。この世界に来てから出会った全ての人々とも。
「おまえがそう思ってくれるのは嬉しいんだけどな」
小さくため息をついて、将臣は言った。
「おまえ、清盛から聞いたんだよな?俺が、こことは違う、別の世界から来た、ってこと」
初めて会った時、帝は利発な瞳を好奇心に輝かせ、恐れもせずに将臣に近付いてきた。そしてこう言った。――そなたが異界より参った客人であるか?と。
「まあ、その話自体、信じられないって奴もけっこう居るわけだが……」
「私は信じるぞ」
将臣の言葉を遮り、帝はきっぱり言った。
「おじいさまが私に嘘をついたはずがない。もちろん、将臣殿も嘘つきなどではない」
「……ありがとよ」
と将臣は答えた。それから、何やらくすぐったくなって、意味もなくぽりぽりと顔をかいたりした。
「もとの世界には、将臣殿の父上や母上が居るのか」
真面目な声のまま、帝が問いかけてきた。
「……ああ、居るよ」
将臣は両親の顔を思い浮かべた。
今頃、どうしているだろう。息子2人が行方不明のままで。
望んでこうなったわけではないにせよ、心配かけていることには変わりない。無事帰れたら、まず1番に謝らなくてはなるまい。
将臣の肩の上で、帝は黙り込む。
幼い子供にとって、両親と離れ離れになっている、などという話は、聞くだけでもつらいものかもしれない。
まして帝は父親を亡くしている。もしや泣いてしまうのではないかと、将臣は心配になった。
「今すぐに帰ったりはしねえぞ。一緒にこの世界に来ちまったかもしれない奴らとも、まだ会えてねえし」
付け加えるなら、帰るための方法すら、いまだわからないのだし。
「だから、まだ当分は世話になる」
将臣は断言した。……よく考えたら、偉そうに言うことでもないが。
「では、その間は友達なのだな」
と帝が言う。今度は迷わずに、「ああ」と返事をした。
ホッとしたように笑顔を浮かべる帝。
そのタイミングを待っていたのだろうか。帝の世話役の女官たちが、こちらに近付いてきた。
「帝、冷えて参りましたわ。そろそろお戻りになりませんと」
「嫌だ、まだ遊ぶ!」
と帝は叫んだ。
「私はまだ将臣殿と一緒に居る!」
初めて内裏に来た時も、やっぱりこんなやり取りをした気がする。
そして女官の1人が、何か思いついたようにぽんと手を打つのも同じ。
「そうですわ、今夜は七夕でございます。将臣殿にも、願い事をしていただかなくてはいけませんわ」
別に、自分は願い事などしなくてもいい。……が、彼女たちも役目があるのだろう。帝が風邪でもひいたら確かに問題であるし、ここは調子を合わせておくべきか。
「あー、そういや、まだ書いてなかったな。短冊、じゃなくて梶の葉だったか」
将臣が言うと、帝は「わかった」とうなずいた。
「一緒に願い事をしよう、将臣殿」
帝を肩から下ろし、代わりに手をつないで、時子らのもとに戻る。
「これだ、ここに願いを書くのだぞ、将臣殿」
帝が梶の葉を手渡してくれる。
「どうぞ」
清宗が墨をつけた筆を。
さて、何を書こうか――と考えていると、どうも暇を持て余していたらしい知盛・重衡兄弟が酒を片手に寄ってきた。
「将臣殿は、どのような願い事をなさるのでしょう」
興味深そうにつぶやく重衡。知盛は「クッ」と笑って、
「大方、ずっと探している、女のこと、だろう……?」
探しているのは女だけではない、弟も同じだと、何度言えばこいつには通じるのか。
あるいは、知盛のことだ。自身が興味・関心のない話題は、本気で忘れているという可能性もないではない。
「兄上もたまにはよいことを仰いますね」
なぜか感じ入ったように、重衡がうなずいた。
「七夕は秘めた想いを伝え合う日でもあります。――将臣殿。ここはひとつ、想いの成就を願ってみてはどうでしょう」
ひやかす気満々の兄弟の前でそんな真似をするほど、自分は馬鹿ではない。
とはいえ、あらたまって星に願うことといったら、望美たちとの再会か、もとの世界に帰ることくらいしか――。
いや。もう1つあったか。
思い浮かんだのは経正の顔。先日、邸で飲んだ時に聞いた、いずれ北陸に出兵するという話――。
経正は副将で、大将を務めるのは通盛だと言っていた。ついさっき、妹のおめでた話に感涙にむせんでいたあの男も、間もなく戦地に赴くことになるのだ。
それは2人に限った話ではない。知盛や重衡も、少し離れた場所から遠巻きにこちらを見ている小松兄弟らも、そうなる可能性が高い。
なぜなら、将臣の知る歴史では、平家一門はいずれ戦に敗れて滅亡の道を辿るのだから――。
(……同じになるとは限らない)
将臣は思った。
清盛が病に倒れた際にも、全く同じことを考えた。
ここは異世界。
平家の人々は、過去に滅びた一族ではなく、今、将臣の目の前で生きている。
「……だいぶお悩みの様子ですね」
筆を持ったまま物思いにふけっている将臣を見て、重衡が言った。
「夜が明ける前には……決まるとよいがな……」
うるせえな、と将臣は知盛の顔をにらんだ。
まあ、確かに。いつまでも悩んでいても仕方ない。こういうのはフィーリングだ。適当に思いついた言葉を、将臣はさらさらと梶の葉に書いた。
知盛が手元をのぞき込み、妙なものを見た、という風に眉をひそめた。
「何と書いたのだ?」
帝が無邪気な顔で尋ねてくる。
「ん。『家内安全』だ」
将臣はそう言って、漢字四文字が書かれた梶の葉を帝に見えやすいようにした。
「家の中に、災いが降りかかりませんように。家族が平和でありますように――って意味だ。こういうの、よく紙に書いて家の中に張ったりするだろ?」
と、そこで小さく首をひねる。
「……ん?あれは願い事じゃなくて、神社でもらってくるお札か何かだったか?」
将臣の微妙かつ曖昧な説明に、帝はきょとんとしている。代わりに清宗が、
「いい願い事ですね」
とフォローしてくれた。
「将臣殿のご家族が元気でいますように、って僕もお願いします」
一生懸命励ましてくれる少年に、将臣は「ありがとよ」と笑いかけた。
「つまらんな――」
知盛は興をそがれたようだ。もはや用もないとばかりに、さっさとそばを離れていく。
その背に向かって、将臣はわざと聞こえないようにつぶやいた。
「俺にとっては、それほどつまらない願いってわけでもないんだがな」
そして立ち上がり、願いを書いた梶の葉を盥の水に浮かべた。
かすかに波紋が広がり、夜空の星々が揺れる。書いたばかりの墨が、じんわりと水ににじんだ。
「これでよし、と」
将臣は顔を上げた。別に何かをやりとげたというわけでもないのに、妙にすっきりした気分になっていた。
「……どうかなさったのですか、将臣殿」
重衡が聞いてくる。答える代わりに、将臣はそこに居る人々の顔を順に見回した。
帝と清宗。その膝で眠ったままの副将丸。
時子、建礼門院、重衡。ついでに白猫。知盛の姿は、既に見えない。
――家族が平和であるように。
その言葉には今、自分にとって、2通りの意味がある。
ひとつは清宗が言った意味だ。そしてもうひとつは――。