還内府の章 三十二、兄と弟(2)

 

「将臣殿」

 名を呼ばれて、ハッとする。

 いつのまに戻ってきて、いつから見ていたのか――そこに、時子が居た。

「帝は……?」

と尋ねると、もう少し時間がかかるという返事だった。女官たちがそばで見ているから心配ないと――。

 やはり、怒っているのか?

 帝にしてみれば、味方だと思っていた将臣に裏切られた気持ちでいるのかもしれない。

 時子はゆっくりと近付いてきた。そして将臣の前で頭を下げて、

「帝のため、親王様のためにご尽力くださったこと……心より感謝致します」

「ちょ、やめてください」

 そんな風に言われては困る。実際に自分がやったことといえば、ただ形だけの謝罪でお茶を濁させただけ、なのだから。

「宗盛殿には私からよくお伝えしておきましょう。親王様や、()(のと)(のり)(すえ)殿が、これ以上責めを負うことがないよう」

「あ、はい。お願いします」

 将臣はあらためて頭を下げた。

 そう。尊成が帝に謝罪したことは、しっかり伝えてもらわなければならない。

 宗盛だけではなく、帝の乳母である領子とか――厄介な相手を納得させるためには、自分ではなく、時子の口から言ってもらった方がいいはずだ。

 面倒事を任せてしまい、時子には申し訳ないことしきりなのだが、なぜかその表情は明るかった。

「私事で僭越(せんえつ)ですが――」

 ついさっきまで少年の立っていた辺りを見つめながら、時子はふと口元を綻ばせた。

「あの親王様のお姿を見ていると、何やら愚弟の顔が思い出されるのです」

「え、愚弟って、時忠……さん?」

 将臣は不思議に思った。

 時子の実弟・時忠は、既に50過ぎのおっさんである。幼い尊成と、どんな共通点が?

いや、時忠とて無論、生まれた時からふてぶてしいおっさんだったはずはない。それなりに可愛らしい時期もあったはず――。

将臣の脳内フォローを、しかし時子はあっさり打ち消した。

「我が弟は、親王様のように聡明ではなく、幼い頃から愚かで傲慢でありましたが」

「…………」

「ただ、生まれ落ちた運命(さだめ)に甘んじることなく抗おうとする姿は、似ているようにも思うのです」

「生まれ落ちた、さだめ?」

 意味がわからず、将臣は聞き返す。時子はうなずいて、

「私ども(きょう)(だい)を産んでくださった母上は、さる高貴なお方に仕える半物(はしたもの)でございました」

半物、という言葉の意味もわからなかったが、将臣は黙っていた。その響きから、身分の高い女性ではない、ということはなんとなく察しがついたからだ。

「父上は私どもを可愛がってくださったのですが……。それでも、人前に出れば、軽んじられることもございました。早く正式な妻を迎え、跡取りとなる子を為せと……私ども姉弟の居る前で、父上に申される方々もおりました……」

「…………」

 将臣は黙った。

 多分、よくある話なのだろうと思う。身分どうこうはともかく、他人の家の事情にしたり顔で口を出す(やから)は、どこの世界にも居る。

 そうは思っても、腹が立った。幼い時子が、そんな心ないセリフを浴びせられている姿を想像すると――。

清盛はこの話を知らなかったのだろうか。もしも知っていたなら、それがたとえ遠い過去のことであっても、許しておかなかったろうと思うが。

「そんな時、弟は申しておりました。いつか必ず見返してやる、そして後悔させてやるのだ、と」

 将臣は顔を上げた。それは確かに――さっき、尊成も似たようなことを口にしていた気が。

「どのように見返すつもりかと私が尋ねましたところ、己の頭を指し、『自分はあんな奴らとはここの出来が違う』などと申しておりました。『己の生まれにあぐらをかいた、愚昧(ぐまい)(やから)など敵ではない、自分の方がはるかに出世してみせる』と、小ざかしくも息巻いていたものでございます」

 あきれたような、それでいてどこか懐かしそうな時子のまなざしにつられるように、将臣の口元も緩んだ。

「私が清盛殿の継室(けいしつ)となることを決めた時、最も強く後押ししたのは時忠なのでございます」

 将臣にほほえみを返しながら、時子は意外なことを言った。

「あの御仁は只者ではない、途方もなく偉くなるか、落ちぶれて野垂れ死にするか、どちらかだろうと」

 将臣は声を出して笑った。ひどい言われようだが、清盛の顔を思い浮かべると、妥当な評価だという気もしてくる。

「尼御前はその時、なんて言ったんですか」

 時子はすまして答えた。

「夫に死なれては困ると申しました」

 もっともな話だ。すると時忠は、案ずることはない、自分が義兄上(あにうえ)を大いに出世させて差し上げるからと返したそうだ。

 ついでに自分が偉くなることが目的で、あくまで自分のため、というのが時忠らしい。

 いや、この場合は自分たち姉弟のため――と言うべきだろうか。

 母親の身分を理由に、2人が世の中から軽んじられてきたというなら、時忠にとって、同じ母を持つ時子は唯一の味方――あるいは、共に戦う同士のようなものだったのではないだろうか。あくまで想像だが。

「私欲にまみれた罪深い弟なれど、あの子がおらねば、私の人生は、今とは全く違ったものになっていたことでしょう……」

 遠い目をしてつぶやく時子の横顔を見ながら、将臣の脳裏に浮かんだのは他でもない、自分の弟の顔だった。

 この世に生を受けて18年足らず、しかし時子の言葉は理解できた。もしも(ゆずる)が居なかったら――きっと自分は、今と同じ自分にはなっていない。

ではどんな人間になっていたかと問われてもわからない。1つしか年が違わないせいで、物心ついた時にはもう弟が居たのだ。

そんな譲が存在しない18年を想像しようとしても、どだい無理な話だった。

「きょうだいってのは、悪くないもんですよね」

 口に出したら、なんだか陳腐なセリフになってしまった。時子は笑ってうなずいた後、ふいに表情を翳らせた。

「されど、帝は……」

 そうつぶやいたきり、口ごもってしまう。

 考えているのは、帝と尊成のことか。

 同じ母親のもとに生まれ、共に育った時子や将臣の場合と、それぞれ違う母親を持ち、別々に育てられている帝と尊成の場合では、同じきょうだいと言っても事情が違う。

 何より、一方は天子様だ。

 あの2人が、それぞれの立場の違いを越え、兄弟として手を取り合うことがあるかと考えると――かなり難しいと言うほかない。

 それでも、将臣は知らなかった。

 数年後、(いくさ)に敗れた平家一門と共に帝が都を追われ、その後を継ぐ形で尊成が即位させられること。

帝位の象徴たる三種の神器を持たぬまま、大人たちの利害と思惑によって即位した尊成が辿る数奇な運命。

 今より遙かに立場を隔てた兄と弟の間で、自分がどんな選択をすることになるのか――まだ何も知らない、この夜の将臣であった。




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