還内府の章 三十一、母と子(3)

 

「教子さんが……倒れた?」

 (みち)(もり)は沈痛な表情でうなずいた。

「何かの病気なのか?」

将臣の問いに、今度は首を振り、

「いや。あれは幼い頃から、風邪ひとつひいたことがないのだ。あのように青い顔をしているのは初めて見た……」

妹のことが心配でならないのだろう。通盛は、自分も病気になったように青ざめている。

気持ちはわかる。この京では医学も未発達だ。ついきのうまでは元気だった人間が、ある日突然、命を落とすこともあると聞く。

将臣は(たか)(ひら)を見た。少年にとって、乳母の教子は母親も同じはず。あの不機嫌そうな顔は、不安の表れかもしれない。

「薬師のもとに運ばれる時、教子は『親王様のことをくれぐれも頼む』と言ってな。だが、親王様は(かたく)なで……俺や父上とは、ろくに話をしてくださらぬのだ」

何とか頼む、将臣殿。

通盛が頭を下げる。

「わかった。尊成のことは俺が見てるから、あんたらは教子さんの所に行ってやれよ。身内がそばに居た方が心強いだろ?」

「かたじけない。そうさせてもらえるか――」

 通盛が大きな体を翻そうとした時、

「その必要はございませぬ、兄上」

と声がした。

そこに立っていたのは――倒れたはずの、教子だった。

唇には血の気がなく、いつもより顔は白いが、しっかりと自分の足で立っている。

「おお、教子!」

「姉上――」

(のり)(もり)(のり)(つね)親子が、狼狽しながら駆け寄っていく。その男2人の隙間を縫って、尊成が飛び出した。

「教子、無事だったのか!」

 飛びつこうとする少年を、しかし教子は手を上げて制した。

「教子は無事でございますよ、尊成様。どこも全く、悪くありませぬ」

「無理をするでない、あのように青い顔をしておったではないか!」

 教盛が叫ぶ。

教子は父親の大きな体を見上げた。うろたえる男たちとは対照的に、実に落ち着いた顔をしていた。

「ちょうどいいので、父上や兄上にも聞いていただきましょう」

 そう言って、教子はその場の全員の顔を見回した。最後に、自分が世話する少年を見て、

「尊成様。実は、教子は子ができたのでございます」

 教盛が咳き込んだ。通盛がぽかんと口を開け、教経が「なんと、姉上。それは真でございますか?」と叫ぶ。

 将臣も驚いたが、それ以上に、尊成の反応が気になった。

少年は、大きく瞳を見開いて自分の乳母を見つめていた。

「……(のり)(すえ)の子か?」

 その質問は正直どうかと思うが、教子は素直にうなずいた。

「はい。間違いなく夫の子でございます」

「子供……」

 尊成がうつむく。

 嬉しそうではない。明らかに衝撃を受けたような顔をしている。

 将臣は少年の気持ちを想像してみた。

 自分の乳母に――母親のように慕う女性に、子供ができる。

普通に考えれば、生まれてくる子供に彼女を取られるような気持ち、だろうか。

 つと、教子の手がのび、少年の手と重なった。

 尊成が驚いたように顔を上げる。教子は少年の手を、自分のお腹の辺りにふれさせた。そして言う。

「ここにおりますのは、親王様の乳母(めのと)()にございます」

 もう1度、尊成が瞳を見開く。

「男か女かはまだわかりませぬが、必ずや親王様のお味方になりましょう。どうぞ末永く、かわいがってやってくださいませ」

「俺の……乳母子」

 尊成が繰り返す。

 将臣は待った。続く少年の言葉を。

 通盛や教盛も、ハラハラしながら様子を見守っている。

「……教子。ひとつ聞いてもよいか」

 やがて少年は、ひたと乳母の顔を見すえた。

「何なりと」

「その子供のこと、俺よりも大切だと思うか?」

 すごいことを聞くものである。いや……ここは子供らしいセリフと受け取っておくべきか?お母さんは僕のこと好きだよね?もうすぐ生まれてくる弟や妹より好きだよね?

「教子は、尊成様のことが最も大切でございますよ」

 こちらもさらりと、すごいことを言う。お腹の子供が、少々気の毒ではないか――。

「尊成様をお預かりする時、私は尊成様の母になる覚悟を致しました。故に、この世の何より大事でございます」

 いや。違うか。

 教子が言っているのは、ごく普通の、母親の答えだ。

 お母さんは、あなたのことが世界で1番大事よ――。

「教子は間もなく、この子の母になりますが」

 尊成の手をお腹に当てさせたまま、教子は続けた。

「尊成様を大切に思う気持ちは、少しも変わりませぬ。無論、産まれてくる子のことも大切でございます。故に、尊成様にかわいがっていただきたい、と申し上げたのです」

 あなたのことも、赤ちゃんのことも、同じように大切なのよ。あなたにはいいお兄ちゃんになってほしいの。

 大人の理屈だな、と将臣は思った。

 親にとって、子供はみんな大切でかけがえのない存在――それは嘘偽りのない気持ちなのだろうと思う。

ただ、それはそれ。子供には、自分だけが大切だ、1番だと言ってもらいたい時もあるものだ。

果たして、尊成はどう答えるだろうか。

「…………」

 尊成は沈黙した。長いような短いような沈黙だった。やがて短く息を吐いて、教子から手を放し、

「俺には、よくわからん」

 それが、少年の答えだった。ちょっと無理をしたように口の端を持ち上げ、

「だが、教子がそうしてほしいというなら、かわいがってやってもよい。男なら一の家来にしてやる。女なら妹だな。着物でも(ぎょく)でも、何でも買ってやるぞ」

「ありがとうございます、尊成様」

 教子がほほえんだ。

 きれいな笑顔だな。将臣はそう思った。今、気づいたが、教子はきれいな人だ――。

「教子は、尊成様を誇りに思います。尊成様の乳母でよかったと思います」

 つられたように、尊成も笑った。いたずら小僧のような、少しだけ子供らしい笑みだった。

「乳母子ができるのは、俺も嬉しいぞ。教子」

 誰かが鼻をすすった。

 見れば、教盛が泣いている。声もなく頬を濡らす父親の隣りで、通盛もまた目を赤くしている。弟の教経は涙こそ見せていないが、感極まったようにうんうんとうなずいていた。

 ……どうやら、自分の出番はなさそうだ。ここは家族の邪魔にならぬよう、こっそり退散するとしよう。

足音を忍ばせ、将臣はその場を離れた。




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