還内府の章 十九、清盛の遺言(2)

 

 治承(じしょう)5年、(うるう)2月4日。

 平家の棟梁・平清盛は、64年の生涯を閉じた。

 その葬儀は、ひっそりと人目につかぬよう執り行われた。

 故人の遺言だったらしい。

――弔いも、見送りも要らぬ。

あの恩知らずの不埒(ふらち)な若造の――源頼朝(みなもとのよりとも)の首を、我が墓前に掲げよ。それこそが、唯一の弔いと心得るがいい。

 将臣に語った通り、清盛は死後の安らぎなど望んでいなかったのだ。

それから何日か。将臣は、ただぼんやりと時を過ごした。

 心の真ん中に穴が開いたような気分だった。

 出会ってから今日までの出来事が、脈絡なく頭に浮かんでは消える。

(結局、世話になる一方だったな……)

 もっと伝えておくべきだったかもしれない。

 行くあてのない自分を受け入れ、居場所を与えてくれた――感謝を。

(なんて、後悔してても仕方ねえか……)

 辛気臭い顔をするでない、と清盛に笑われてしまいそうだ。

 将臣は部屋を出た。冷たい水で顔でも洗えば、少しはすっきりするかと思った。

 廊下を歩いていると、偶然、来客を見かけた。

 清盛の義弟、(とき)(ただ)だった。

 邸に客がある時、時子は必ず、事前に知らせてくれる。それがなかったということは、つまり急な客ということだ。

 時子と時忠は実の姉弟だから、約束なく訪ねてきたとしても、別に不思議はない。ただ、遠目に見た時忠は、何やら穏やかでない空気をただよわせている。

(用件だけ、確かめとくか)

 軽い気持ちで、将臣は2人が話している部屋に近付いた。立ち聞きするつもりなど毛頭なかった。

 それが、のっけから聞こえたセリフが、

「いつまであの者を邸に置いておくつもりですか、姉上」

である。

 両足が固まって、その場から動けなくなった。

「将臣殿が、元の世界にお帰りになるまでです」

 時子の答えは落ち着いていた。ややあって、時忠のため息が聞こえてくる。

「姉上。異界からやってきたなどという戯言(ざれごと)を、まさか信じておられるわけではありますまいな。あの顔は、どう見ても……」

「時忠」

 びくりと時忠が身をすくませるのが、気配でわかった。時子は別に、弟を叱りつけたわけではない。穏やかで柔らかな、いつもの声で、

「その先の言葉を口にするつもりなら、今後、邸への出入りを禁じねばなりませんよ」

 時忠の声は困り果てていた。

「姉上……。私はただ、噂が一門の外にまで漏れ広がることがあっては、と。亡き義兄上(あにうえ)や一門の名に、傷がつくことを恐れて……」

「そのような心配は無用です。用件がそれだけならば、お帰りなさい」

 時忠は尚も考え直すようにと言い続けたが、結局、姉には逆らえないのか、おとなしく引き上げていった。

 時子は座したまま動かなかった。時忠の足音が完全に消えてから、

「将臣殿」

と呼びかけてきた。

 いつから気づかれていたのだろう。将臣は観念して姿を現した。

「…………」

 時子は静かにこちらを見上げている。

 何を言えばいいのかわからなかった。とにかく立ち聞きしたことを謝ろうとすると、先に時子が頭を下げてきた。

「弟の無礼、お許し下さいませ」

 将臣は慌てた。

「いやいや。無礼っていうか、考えてみれば当然っていうか。ずっと親切に甘えちまってたけど、俺もそろそろ、1人で生きていけるようにならねえと。だいぶ京にも慣れたし、その気になりゃ、荷運びでもなんでもして食っていける……かもしれないし。住む場所とか探すのは……また、面倒かけちまうかもしれない、けど」

「将臣殿」

 時子が、自分の名を呼ぶ。

 先程の時忠と同じように、将臣はぴたりと口を閉じた。

「愚弟の申しましたことは、どうかお忘れ下さい」

「いや、けど……」

時忠の言っていた、『噂』とは何か。

 少し考えれば、わからなくもない。

 清盛の死んだ息子にそっくりな男が現れて、それを清盛があれこれと世話を焼いていたのだ。

事情を知らない他人の目には、普通どう見えるか。

一門の名誉に傷がつきかねない、と時忠が案じるのも、むしろ当然だろう。

「将臣殿には、ずっとお礼を申し上げねばと思っておりました」

「……礼?」

 将臣は首をひねった。それを言うのは、世話になったこちらの方であるはずだ。

 時子は小さくうなずいて、話し始めた。

「もしも将臣殿がこの世界にいらっしゃらねば、清盛殿の最後の数ヶ月は、暗く、怨嗟(えんさ)に満ちたものになっていたことでしょう。重盛殿を亡くされて以来――あの方の心は、深い悲しみと憎しみに捕らわれてしまっていたのです」

 清盛が長男に先立たれたこと、そのせいで自暴自棄になっていたという話は、以前、少しだけ聞いたことがあった。

 しかし、将臣には、そういう清盛の荒れたところを見る機会がほとんどなかった。

将臣の知る清盛は、頭の回転が早く、好奇心旺盛で、子供のようにわがままで。

偶然出会った自分のことを、息子に瓜二つだからという理由だけで世話してくれた、お人よしの物好きで。

かなり気分屋ではあったが、今、思い出せるのは、機嫌よく笑っている顔ばかり。

だから、時子がどんな気持ちで故人の思いを語っているのか、本当のところは理解できなかった。

せいぜい神妙な顔で、じっと口を挟まずにいるだけだ。

時子はかすかに震える息を吐き出し、ゆっくりとこう言った。

「清盛殿は、亡くなる前に、お笑いになりました」

 悪くない人生だった、と言って。

 とても、愉快そうに。

 清盛の最期を看取ったのは、時子1人だった。清盛自身が、そう望んだという。

「将臣殿との出会いが、あの方の心を救ってくださったのです。どれほど感謝しても、し尽くせるものではございません」

 自分は何もしていない。感謝など、される理由もない。

「ですからどうか、将臣殿が元の世界にお帰りになるその日まで、お世話をさせて下さいませ。それが、この尼の願いにございます」

訥々(とつとつ)と話し続ける時子の瞳に、かすかに光るものがあった。

 将臣は言葉が出なかった。ただ黙って、頭を下げるしかなかった――。




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